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誰かの「存在を信じる」ということ

人は嘘をつく。自分が一番大事だし、時に裏切る。
そう思って生きてきた私の
2021年で一番良かったと思うことは、
親しい人を本当の意味で信じられるようになったことだ。

ひとりぼっちだと感じる時

私は眠れない夜や嫌なことがあった日、
悲しさに飲み込まれそうになることがある。
普段は忘れているようなどうでもいいことが、
バーーーーっと連続でフラッシュバックする。

私は決まって大号泣しながら、姉に連絡する。
私には良い友達は何人かいるが、
そうした原因不明の混乱に陥った時に
連絡できるのは姉だけだった。
友達には後日笑って「この間謎に号泣してさ」
なんて話をしていた。

看護師だった姉は毎回、辛いね悲しいね、
なんでそうなったの、と話を聞いてくれる。
ただ、姉はものすごく精神的に安定していて
一人で泣くこともほとんどないし、
魂の属性が私とは全く違う。

だから私の気持ちを完全に理解しているわけではないし、姉も正直に「私にはわからないけど」と
断った上で話を聞いてくれる。

姉には心から感謝しているのだが、そんな時私は
ああ、本当に私を理解してくれる人は
 いないんだな。
」と悲しくなっていた。

自分のことをわかってくれる人がいないとすれば、
相手が見ている自分と、私の見ている自分は
全く別の人間なんじゃないかと思えてくる。

いつか本当の私の姿が見えてきた時には
みんな私を嫌いになり離れていくかもしれない。
それでも、表面上だけは仲良くしてくれる人もいるかもしれないけれど。
人間は嘘をつく生き物だから。

そんなことを考えて
やっぱり人間は死ぬまでひとりぼっちなんだな、
誰のことも信じたくないな、と思い
絶望感に苛まれることが度々あった。

「存在を信じる」とはどういうことか

数ヶ月前、姉に打ち明けた。
すごく厨二病じみていると
自分でもわかっているけれど
人間は信じるに値しないのではないかと。

人間は結局誰とも本当の意味では分かり合えないし裏切る可能性もある。
少し寂しいけれど、だったら最初から諦めて
信頼しないほうが気楽なのではと思ったのだ。

姉の返答はこうだった。

「私は、家族と親友2人と彼氏のことは信じている。
 それ以外の人は結構どうでもいいんだけど、
 その人たちだけは信じられるし
 何があっても大事にしたいと思っている。

 うまく言えないんだけど、
 信じるってそういう表面的な部分じゃなくて
 もっとこう、“存在”そのものを信じるというか。

 例えば親友Aは嘘をつくよ。
 Bもつくけど、私もつく。たまにね。
 でもそういうところも含めて、信じてるんだわ。

 何があっても結局は繋がっているし
 変わらない部分は絶対に変わらない。
 縁は一生切れないし、どこにいても
 想い合っているって信じられる
。」

どうやら姉の言う“存在を信じる”とは
その人の変わらない部分や
 自分と死ぬまで関わる可能性“という
不変性を信じることらしい。

一緒に過ごした時間を信じる

だとすると、それにはかなりの時間を
要するのではないだろうか、と聞いた。

「うん、時間はかかる。
 密度というか、その時間の中で
 どれだけ自己開示し合って
 相手のことを知ったかにもよるけど。

 でも私は、過去を結構信じてるんだわ
 何を大事にしてどう生きてきたか、
 人の過去を見れば大体どんな人かわかるでしょ。

 だから、やっぱり長い時間を一緒に過ごせば
 他の人のこともより信じることもできる。

 親友AとBは20年以上友達だけど
 子供時代じゃなく、今出会っていたら
 そんなに仲良くなってないと思う。
 一緒にいた時間が、絆の強さを物語ってる。」

人間は移りゆく生き物だし
いい時も悪い時もある。
それでも今まで何年も一緒にいたから、
これからもずっと側にいる

見捨てて離れていくことはない。
姉はそう言いたいんだなと思った。

見返りを求めて一緒にいるわけじゃない

姉の言葉を聞いて半分わかった気がしたが
自分のものにできるほど腹落ちして
理解できているとは思えなかった。

姉は元々口数が少ない方なので、
姉と似たような考えをもってそう、かつ
私に近い言葉選びをしてくれそうな人に相談した。
別の記事にも登場したことり(仮称)だ。

ことりは、そうだったんだねぇと言って
姉に言葉に付け加えてくれた。

「そもそも、誰かと一緒にいる理由って
 ”好きだから“という想いが根底にあるでしょ

 らぶちが何かしてくれたら、嬉しいよ。
 でも私は、らぶちが何かしてくれるから
 一緒にいるわけじゃない。

 何もしてくれなくても、好きだから一緒にいる。

 だから、ちょっと嫌なことされたからって
 急に嫌いになって離れていくことはないよね
。」

どうやら、ことり曰く
相手を好きだから一緒にいるという自分の気持ち
(見返りを求めていないという自信)
があるからこそ
相手もそうだろうという前提で、
相手の存在を信じられるらしい。

姉が言いたかったことも
ことりの言葉に通ずるのだと思う。
なんとも愛情深い二人らしいな、と思った。

見返りを与えようとしていた自分

そして同時に、なぜ自分が
人を信じられなかったかがわかった。
全ての人が自分に見返りやなんらかの勝ちを
求めて一緒にいると思い込んでいたからだ。

とても厳しかった母の態度によって、
私は小さい時から
「勉強ができなければ」「いい子でなければ」
「見た目がかわいくなければ」
自分に価値はないのだと思い込んでいた。

だからなるべく完璧でいようと思ったし、
本音よりも求められていそうな言葉を選んで
発言する癖があった。
それだと自分が潰れてしまうと気づいたので、
社会人になってからはやめるように心がけていた。

けれど私は
自分が相手にとって都合がいいから好かれている、
空気をよんで相手を気持ちよくできる自分が
相手に求められている、
と物心ついたときからずっと思っていた。

私と一緒にいて何か得があるから
相手は自分と一緒にいる。
だからなるべく楽しく頑張らなきゃ、と。

けれど違った。
少なくとも、ことりや姉は違ったし
他の友達も絶対に違うと思える。
私自身も、友達に損得勘定は持っていない。
友達も家族も恋人も、私の近くにいる人は
私のことが好きだから一緒にいる。

何日かかけてこの事実に気づき、
ものすごく愛に満ち溢れた気持ちになった。
お互いが好きだから一緒にいる、という
単純な事実に気づけただけで、私自身も
大好きな人たちの”存在“を
段々と信じられるようになった。

人を信じられないのだとしたら


自分が思っているよりも周りの人は
本当の自分の姿を好きでいてくれると思う。
少なくとも私はそう信じている。

今、猫をかぶりにかぶりまくっている人は
いったん猫を頭から外して
本音で人に接してみてはどうだろうか。
その状態でできた仲間は本物だし、
本当の姿を好きになって一緒にいてくれる。
長い時間一緒にいて永遠を見出せられれば
その人は信じるに値する、貴重な存在になる。

恋愛では見栄を張ってしまい難しそうだし、
私と同じかそれ以上に両親や家族との関係が
複雑な人には勇気がいることだと思う。
しかし本当の姿で対峙し合うことで初めて
自分の中で本当の信頼関係が構築できるのだ。


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