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家族写真を撮るということは

初めての撮影は、大阪で家人と二人きりだった。1時間ほど話をしながら、カメラマンの伊東さんとゆっくりした時間をすごしながらだった。カメラに映るのが苦手な家人は中々、自然な表情を出せず少し苦戦していた。そんなことから始まった家族写真。スタートは7年前だった。
お腹には長女が芽吹いたところぐらいだったので、2人ではない気もするが最後の2人写真だ。
そこから転勤があり、伊東さんが東京で撮影会をするタイミングにあわせて撮影をしてきた。
伊東さんから「家族写真」について、すべてのカメラマンが、活動の一部を家族写真撮影に投ずるべきだと言っていたのを聞いたことがある。
家族や人の間で、ぬくもりやつながりが捕えきれなく感じられる昨今なので、写真を撮るという活動によって立ち止まり、何かを思い直し、未来と過去を結ぶといった意義が家族写真にはあるというようなことを考え、その言葉を聞いた。
かくゆう私たちも、家族写真撮影はすでに大事な年間行事だ。その撮影を基軸に休みの調整、床屋にゆき、ささやかな洋服を買い、鏡の前でおニューな衣装合わせなどなど、、準備している一瞬一瞬に気分が高まり、また忘れまた思い出しを緩やかに繰り返し、その時を待つ行事だ。そんな準備期間とは裏腹に学芸大学駅前のmonogramでの撮影は、人気があって所要時間も短い。

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写真を撮るだけなく、学芸大学駅行ったならばと、マッターホーンの季節限定のモカソフトを家人念願で食したり、商店街そば屋でお昼ごはんしたり、周辺の街を散策し、東京という消費ステーションを泳ぐ。

今年はコロナの影響もありそうだ。最初は2人組だった私たちも愛犬もあわせて心臓5つ組だ。
いつまで続けられるか分からないこの活動。
一年に一度しかない写真に凝縮された日々を、いつかどう思ってその写真たちを眺めるのか、きっと嬉しい思いだけじゃないだろう。
過ぎ去った日々に苦しい涙も、愛おしい涙も流すときがくる予感だけは予感を超えて間違いない。
家族写真撮影のおかげで、一年一年にピリオドをうってみている。
思い出を沢山もって、天国のドアをたたこう。と思っちゃったりしている。

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