ピンボール・ゲーム
ぼくはほんとうにものを知りません。知ってもすぐ忘れてしまいます。記憶の容量がそこまで大きくないのかもしれません。
何か、あとになって振り返ることのできるかたちのものを残すことがあります。ネット上に書き散らした文かもしれませんし、紙の日記帳かもしれません。楽器の演奏や歌を録音したものかもしれませんし、漫画かそれ未満の絵かもしれません。どこどこの学校を卒業したとか、どこそこで働いていたといった事実かもしれません。
あとになって振り返ることのできるそれが、あとになって振り返ったときに恥ずかしいものである場合もあるでしょう。それを受けて大きな衝撃を受け、これからのじぶんはもっとこうしようと決意を固め、それを実践していければ、恥ずかしいと思う何かを残したことは、大きな影響を後生のじぶんに与えたことになります。
なかには、うぬぼれちゃうような何かが残されている場合もあるかもしれません。うわぁ、おれ、こんなものを残していたんだ……あの頃のおれ、ええやん。……とでも思ってしまうようなものです。よくじぶんここまでやったなぁ、などと思って、「いまのじぶんにここまでやれるか? いや、もうきついわ」と単純におのれの体力の低下を悔やむか、あのときは運や偶然も味方して、奇跡めいたはたらきができたのだと、そのときを振り返ることもあるかもしれません。
いついかなるときにどんなことをふっかけられても準備万端! というわけにはいきません。資源には限りがありますし、それをストックできるお道具袋の容量にだって限りがあります。ふっかけられた内容が、そのお道具袋の中身で対応できるものでしたらそれらを取り出して並べ、おのれの準備の良さに多少酔いでもしながら演じてみせればふっかけヌシにいくぶん喜ばれるかもしれません。ですが、なかなかそうもいきません。お道具袋の中身ですべてには対応できないでしょう。
そんなときぼくが晒せるのは、生身のリアクションでしかありません。それだったら、お道具袋の中身の質や量に関わらず晒すことができます。「ふっかけられる」程度のことにもともと求められたり期待されたりしていることって、その程度の「リアクション」なのかもしれません。
そのリアクションが馬鹿なものであるほど喜ばれるけれど、リアクションをした本人はそのときのことを思い出す度に恥ずかしくなる、なんて互い違いの評価が生じることもあるかもしれません。
認知せずに垂れ流しているリアクションも多くて、じぶんはそうした事実を日々生んでいることに気付かずにいつつも、だれかがそれらのどこかしらを受け取っていて強い影響を受けたり、おのれを変えるきっかけてしていたりする場合もあることと思います。だれかだったり、何かしらのものやことが反射板の役割をして、のちのじぶんに返してくれるということも起こりうるようです。ともだちって、案外そういう存在かもしれません。「これでどうや!おれがんばったで!」というような鼻息の荒い発信ではなく、何気ない力の抜けたおのれの態度がいかなるものかを教えてくれる鏡のようなものなんじゃないかと。
お読みいただき、ありがとうございました。
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