歌と生花と給食用野菜
イベントごと、お祝いごとで、毎年たくさんの需要がある、生花。それが余ってしまっているとも聞きます。需要がなくなり、お金にかえることもできない。しおらせ、枯らせてしまうくらいなら…自由に持っていっていただくというのもあるのかなと思います。平時なら、命と同等の「商品」。それを、無償で差し出すこと。それは、思念・思想を差し出すようなことかもしれません。もはや「お金」には替わらないのだから、せめて「思い」を差し出そう。そういう意図なのだととらえることもできそうです。
現代風に、生花が売れなくなったことによる困窮への救済を考えると、クラウドファウンディングしようとかいろいろ手段はあるのかもしれません。でも、いま余っている、鮮度がある「生花」をリターンに使うのは難しいのかもしれません。クラウドファウンディングなら、やはり、「いま支えていただいて立て直すことができたら、将来お花をお届けします」といったリターンになるのかな。わかりませんけれど。
ひと月ほど前でしょうか、給食の野菜余りが話題になりました。ちょうど、「このまま学校が春休みまでぶっつづけで休みになってしまうこと」が話題になった直後のことでした。
私の街で、地域の農家が学校の給食のために生産していた余ってしまった野菜を地域で売ろう! という動きがありました。数度実施していて、完売したと聞きます。生花も、野菜のように売れはしないものか…? 生産している地域で直売、というふうにはいかないのでしょうかね。そういう先例がすでにあるのかもわかりませんが。
私は農家ではありません。私にできることは、生花の生産や販売ではないかもしれません。できることといえば、歌や演奏くらいのものですが、いまの状況だと「オンライン」一辺倒に頭がなりがちです。物理的な空間を共有する企てをしようものなら、感染拡大と医療崩壊を招く殺人者とみなすような極端なものいいをどこでされるかもわかりません。それをおそれて自粛するのは確かに違います。全力で防がなければならないのは、自分が誹りを免れることではなく、救えたはずの人命が落ちること、感染が拡大することです。それはもちろん承知している一方で、私や私のような音楽関係者なりなんなりが平時やってきたことが、現在の状況においては「殺人幇助」みたいにとらえられることを、単に、そう、ただただ単に憂う気持ちがあります。それでいて、ステイ・ホームに努めているのです。世の中の潮流を眺めて、流れたり流されたりしています。ときおり陸にあがってみたり、足を水に浸けてみたり、全身で飛び込んでみたり…。
お読みいただき、ありがとうございました。
青沼詩郎
・本文中で挙げた、地域での給食用野菜販売時の映像のリンクです。
『レポート:給食用野菜即売会byまちテナ西東京』
https://www.facebook.com/chiikitoeizou/videos/1107037626327736/?vh=e&d=n
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