主体性という病②〜嫌われる勇気〜

前回の記事をざっくりまとめると、
人間は本来、主体性な生き物
大人や社会が子どもの主体性を奪っているだけなのでは?
という考え方を私はしています。

では、そこから踏み込んで、
子どもに主体性を求めるには、まずは私が主体的でありたい。
そのために何ができるか?

嫌われる勇気をもつこと。

主体性は育てるものではなく、手放さないようにするもの。
どうして奪われていくのか?
その要因を探ると、ここに辿り着きます。
「嫌われる勇気」

小学生の頃
友達の輪の中から追い出されるのが嫌で、よくないと思っていたイジメに加担した。
中学生の頃
不良と呼ばれていたヤンチャな同級生が怖くて、言いたいことが言えなかった。
自分の考え方がおかしいと否定されるのが辛くて、誰にも本音を言えなくなったこと。

大人になってからも
職場のルールがおかしいなと思っても、陰で愚痴ることはあっても、結局それに従っていた。
子どもへの接し方が暴力的だなと思う職員がいても、心を痛めるだけで、止めることができなかった。

主体性を手放さないために大切にしていることがあります。

①自分と向き合う時間を確保すること
②自分の感じ方、見方を大切にすること
③それに従って行動して見ること
④自分の見えている景色を人に伝えること

今の私、①と②はできていると思ってます。
おかげさまで心の余白は確保できています。

③と④、分かってはいるものの難しいですね。

本来、主体的であることは、命がけ。
簡単なはずはないですね。

自分の考え方がどうであれ、権力に従順でないと処刑される時代が長く続きました。(戦時中の日本、ナチスドイツなんてその典型)
残念ですが、今現在でも、そういった国や地域は現存します。

それに比して、今の私
主体性を発揮するのには、最高の環境。
どんなに嫌われても、人を立腹させても、命までは取られることはないだろう。
それは先人たちが苦労して勝ち取ってくれたもの。感謝すべきことである。

今のこの状況で、私が組織や上司、同僚に忖度しているのであれば、
子どもたちに主体的であることを求める資格なんてない。
求めてしまえば、私が思い苦しむことになるだろう。

嫌われる勇気をもてないのならば、主体性を語る資格はない。
主体性を手放すことは、先人たちの苦労を無にすること。
そういったことを思う今日この頃です。








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