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クレオール、侵略、エキゾチシズム(ムスリムガーゼ『Souk Bou Saada』レビュー)

多作ながらかなり限られた枚数しかリリースしないなど、ムスリムガーゼはCDやヴァイナルを手に入れるのが難しいイメージがあります。どこで手に入れたか覚えていませんが、紙ジャケの『Souk Bou Saada』を偶然見つけた時は、筆者はいたく興奮した記憶があります。

そんなことを思い出して例によって久しぶりに『Souk Bou Saada』を聴こうとしたところ、中身がKutmahにすり替わっていました。

探してもどこにもなかったので、考えることをやめてレビューを書くことにしました。悔しさをバネに。

余談ですが筆者は所有物の管理が杜撰で、自宅にある音楽を聴こうとジャケットを手に取ると、中に違うCDが入っていることがよくあります。

過去の投稿ではKira Kiraの『Skotta』がなくなっていた話をしましたが(詳細は下記ご参照ください)、紛失アルバムのシリーズもたまに書くかもしれません。悔しさをバネに。

また、例によってムスリムガーゼの人となりについてはあまり詳細に語っていないので、Wikipediaなどをご参照ください。

ムスリムガーゼのリミットサイクル的帰結

アンリ・ポアンカレが見出した概念の中に「リミットサイクル」というものがある。

リミットサイクルとは、力学における相空間の閉軌道、つまり、どこか一つに安定して収束する軌道を有するもののことを指す。

例えば、人間の心臓の拍動は、運動や衝撃で乱れたとしても一定の回数に戻っていく、この時における心臓の一定の拍動回数を「(心拍数の)リミットサイクル」という。

アトラクターとはそもそも「力学系が時間的発展をする集合体」のことを指すので、これを概念として敷衍するのは些か性急ではあるが、筆者は複雑な現象を目にした時に、ある一つのリミットサイクル的帰結を探すきらいがある。

補足するとそこにおいて筆者は、そのもののそのもの性は一見複雑であるが、根幹的なものを探すと閉軌道的に何らかの現象が見えてくるのではないか?と考えている。

ムスリムガーゼの多彩なディスコグラフィについては筆者も追いきれていない部分も多く、また、アルバムによっても雰囲気が異なるアーティストであるため、一言で「アラビア音楽的」などと形容するのも少し難しい。

では一つの(概念的な)帰結として、彼はどのような人物なのだろうか?

「ムスリムガーゼ(Muslimgauze)」は、イギリス人アーティストであるブリン・ジョーンズ(Bryn Jones)による音楽プロジェクトである。

ちなみに、名前のムスリムガーゼは、「モスリン(Muslin)」という薄手の織物(=いわゆる「ガーゼ(Gauze)」)と、「ムスリム(Muslim)」を合わせたいわゆる言葉遊びからなる。(*1)

(*1)He explained the meaning behind the name Muslimgauze, a play on the words "muslin" and "gauze" 

彼のアーティスト名や、パレスチナのテロリストである「Black September」の名前を使用したアルバム名などからも窺い知れる通り、彼の(特にムスリムガーゼ名義以降の)アティチュードは、ムスリムを取り巻く論争や歴史、特にイスラエルのレバノン侵攻を契機として大きく政治的に傾く。

ムスリムガーゼ、E.g Oblique Graph、あるいはー

ムスリムガーゼの音楽を耳にすると、何だか得体の知れない音楽だという感想を覚える方も多いかも知れない。

実際、彼の音楽からはノイズ・インダストリアルや、ミニマルミュージックのようなドローン的なアプローチもあるように見えるし、あるいはダブ・テクノやダーク・アンビエントのような、非-リズム的アティチュードも垣間見える。

Return Of Black September』のタイトル曲である「Return Of Black September」で展開される・・アラビア音楽的パーカッションに人間の吐息、何かが掠れるような音、金属音がインプロビゼーション的に合わさったサウンドのレイヤーは、どことなく土着的な儀式のようで、CANの『Future Days』の冒頭を彷彿とさせるし、(あるいはSPKのようなインダストリアル・ノイズ?)

Azzazin』では不規則で展開の読めない、Ovalのようなグリッチノイズ的エレクトロニカを鳴らしているし、『Mullah Said』では人間の会話をサンプリングしたものをMonolakeのようなダブに乗っけている。

E.g Oblique Graph」名義の楽曲はナース・ウィズ・ウーンドのようなドローン+ダーク・アンビエント/あるいはサイケのようなアプローチもある。

一貫して言えるのは、人間の言葉などの環境音がカットインしたり、ムスリムガーゼ名義になってからは、ほとんど全ての音楽に「ダラブッカ(Darbuka)」のようなアラビア音楽で用いられる打楽器がビートを鳴らしている、という点だろうか。(ダラブッカではないかもしれないが)

アラビア音楽は単旋律的なウード(Oud)などの弦楽器のストリングスに、このようなテンポが早めの打楽器の伴奏を付けるので、

さしずめ彼の音楽は、かなり大雑把に表現するならば、ダーク・アンビエントやダブ、あるいはインダストリアル・ノイズのボトムを持つアラビア音楽、といった感じに聴こえる。

例えば、『Mort Aux Vaches』収録の「Jaagheed Zarb」などはまさにアラビア音楽的といえる。ノイズ・インダストリアル的なブレイクビーツがアラビア音楽を飲み込んだような感じと言えるかもしれない。

Souk Bou Saada

さて、『Souk Bou Saada』の話をしよう。本作は彼の死後、ベルリンとアムステルダムに拠点を持つインディー・レーベルである「Staalplaat」から2012年にリリースされた作品集である。

全体を通してノイジーで解像度の悪いサウンドをブレイクビーツで展開しつつ、バングラ・ビート然としたずんずんとボトムの太いアップテンポな曲が収録されている。

エキゾチックなダルシマーをブレイクビーツが包むアップテンポな「Maskara」、ブレイクビーツ的なぶつ切りのパーカッションに弦楽器のストリングス(ハープのような感じ?)を大きくフィーチャーした「Salman Pak, Baghdad」などはミニマルな構成で、シンプルながら癖になる。

ドローン的な単音のベースラインを少しダウンテンポ寄りのビートに合わせつつ、弦楽器(ダルシマー?)のストリングスが入る「Algiers And Karachi」に見られる人間の会話のコラージュも、なるほど彼らしい作風だと言えるだろう。(使われている会話は北アフリカの言葉のようだ)

ピーク〜ブレイクのバランスがかなり考えられた構成になっており、聞いていてかなり耳触りが良い。なかなかにフロアコンシャスなのではないか。

クレオール、侵略、エキゾチシズム

フォー・テット(Four Tet)も「ツィター(Zither)」を大きくフィーチャーしたダウンテンポの楽曲を作っていたりしたが、エキゾチックな弦楽器のストリングスが無機質な電子音と絡み合うと、美しいサウンドレイヤーを作り出すとともに、どこか神秘的な雰囲気を醸し出す。

この感覚そのものは、我々日本人にとっては、文脈を飛び越えた一種のエキゾチシズムなのかもしれない。

だが、フォー・テットにも言えることではあるが、ムスリムガーゼの音楽を「エキゾチシズム」的と称するのも少し誤謬がある(少なくともムスリムガーゼの音楽が中東やアフリカ、アラブ諸国にコミットしているのは、異国情緒に対する憧憬ではない、意図的かつ政治的な理由からである)。

文化や地域性がインターネットのアーキテクチャにより崩壊する前の時代に於いてイギリス人男性がムスリムを称してノイズ・インダストリアルや、ミニマルミュージック、ダーク・アンビエントやダブを鳴らしていることの意味性については、ブリン・ジョーンズが亡くなって久しい今になって考えても答えの出ないことである。

ここまでの過程で筆者は、ムスリムガーゼの音楽をバングラ・ビートのようにある種の「クレオール化」したものと言えるのではないか?と考えた。

クレオールとは「植民地で生まれたもの」のことを指すが、例えば、出自が異なる人間同士が意思疎通をするために発生する言葉(ピジン言語)が言語として定着したものなども指す。(※例:クレオール言語)

筆者の指すクレオール的、の意味としては、「現地の本来的な文脈を離れて独自に発展した文化」という解釈の方が近いかもしれない。

しかし、どの言葉を並べてもどうも正解が見当たらない。

考察を重ねたが、冒頭で述べたように彼のカオティックな音楽性をして「リミットサイクル」はどのような様相を呈するのものなのか、正直なところ筆者もよくわかっていない。

ただしその点については、インタヴューを見る限りでは、当人もわかっていないようだ。

We don't aim to be pigeonholed into any musical category, (中略) Personally, when people ask me what it's like, I can't really explain.

何か特定の音楽カテゴリー的な方向性は目指していなくて、個人的に、誰かに(ムスリムガーゼの音楽性を)聞かれても、自分では本当に説明できないんだ。

結局のところ、彼のミスティフィカシオンに対して無理矢理に音楽的ジャンルを当てはめるとすれば、「ダーク・アンビエントやダブ、あるいはインダストリアル・ノイズのボトムを持つアラビア音楽、といった感じ」と称することになるのだろうか。

このメルティング・ポット感というか、音楽的なジャンルを侵略しつつもムスリムガーゼらしさを損なわない、この点が彼の彼らしさ、とも言えるかもしれない。

<現実界>なるものの出来事を我々の認知が掴み損ねるように、彼の音楽にもまた、「新しい陳腐な表現(クリシェ)」を要するのだろう。

だが、彼の音楽はなかなかにフロアコンシャスだ。

そのものの本来的な意味は理解できなくとも、身体は反応する。そういうものに身体を委ねるのも時には悪くない。変化は現れる、そう、「真昼の盗人のように」、よく見れば起きている。そのような音楽体験そのものが、ムスリムガーゼなのかもしれない。

<補足>

①ダルシマーの演奏

②認知、現実界、定義について


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