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ビジネスモデルとしてのアートとアイデンティティの喪失、およびアートの市場原理主義的志向から見る批評の可能性について

マイケル・フィンドレーは自著『アートの価値』にて、アーティストはマーケットに意図的に参画することにより自己同一性を失いつつあり、それにより作品そのものの「意味」は喪失し、しばしば他の商品と代替可能であるという「抽象性」を持つとした。

ただしそれはアガンベン的な「なんであれかまわないもの」としての個物ではなく、そのものの個々の独立性を失ったものとしての「商品」としての作品であり、そこに存在するものは名称以外のものではなく、フィンドレーの表現する場合において、アートそのものは形骸化されている。(形骸化については、今の市場においてはアート・コレクターが購入するアートは事前に存在していない場合もある、という意味において解釈されるものだろう)

ヴェネチア・ビエンナーレの失望について、「生産行為の特異性に反する金と投機によるユニヴァーサルな売春」と嫌悪感を抱いていたアントニオ・ネグリの発言も、現代アートの顧客がごく一部の富裕層であり、マーケットがそれに支えられていることについて揶揄していたとも言える。

なおこれについてはハル・フォスターも『ART SINCE 1900』にて、現代においてアーティストとはビジネスモデルの一つであり、彼らはしばしばポスト・フォーディズム(均一な労働、均一な労働時間という枠を外れた労働システム)経済の枠内で相違を発見する労働者である、と述べている。

さて、市場経済が一部の富裕層に支配されている構造については、アートの「界隈」のみならず、サプライサイド経済学にもとづいたアメリカ資本主義的国家モデルの国民が直面するものでもある。

サプライサイド経済学は、個人の所得が上がることにより富裕層から(税金などで)市民に還元されるトリクルダウン理論を前提としており、市場原理主義、新自由主義(いわゆるネオ・リベラリズム)がこれに当たる。

国家が市場に経済を任せておけば良いという市場原理主義が産んだ現象とは現代のアメリカを見ると顕著だと思うが、一般には貧富の格差の拡大が広がり、文化的衰退、ファシズム的政治的イデオロギーの勃興など、不穏な影が見え始めている・・この現代アメリカに代表される新自由主義的な市場原理主義の経済活動と、現代アートのマーケット至上主義は、市場のイデオロギーに人々が支配されるという意味では似ている。

独占力の強い市場は価格設定を高くしても顧客が離れないことを知っているし、グローバル化を盾に租税回避を行うなど、文字通り市場を支配し、顧客を支配、あるいは搾取する力を持つからだ。

市場原理主義的資本主義社会において、市場に参画し市場を支配する力を持つということは、新しいイデオロギーで人間を支配する力を持つということを意味する。

このようにスティグリッツは経済活動において人間の思考は左右されると述べたが、例えば、ジェフリー・ダイチがギャラリストやパトロンで共同出資体を作り、ジェフ・クーンズの作品の一部を事前に、作品の現物を見ないまま顧客に購入させることに代表されるように、マーケットの動向の変化によりアート・コレクターの消費行動も変化している。

「集中などできない人々の注意を引くには、アートは大きくて、高価で、よくできており、買うのが楽しいものでなくてはならない」とマイケル・フィンドレーは述べているが、前述のジェフ・クーンズやデミアン・ハーストら(自分の名前の)ブランディングに成功したアーティストに代表される作品は、それがどんなものであっても売れる特異な現象が起きている。

フィンドレーはこの状況について、その現代アートマーケットにおける磁場が、「この作品は高いから良いに違いない」という逆転した評価を生み、それが現代アートの一つのバイアスになっているのではないか、と分析している。

マイケル・フィンドレー、ハル・フォスター、アントニオ・ネグリ、そしてジョセフ・スティグリッツを敷衍すると、彼らの懸念事項は大まかに以下の3点に分かれると解釈できる。

①マーケットが衰退した際にアートはどうなるのか?
②ローカルな開発×国際的な通商というアート・ビエンナーレの経済モデルは持続可能なのか?
③(機能を無くしている)美術評論は再び流通するのか?

フィンドレーによると、現代のアートの行き先は「ポッシュロスト(Poshlost)」であるという。

ポッシュロストとは、ロシア語で「ネガティヴな意味合いを持つ人間の特徴や創作物など」をさす言葉であるようだが、ウラジーミル・ナボコフによると「偽りの美しさ、偽りの賢さ、偽りの魅力」と表現されるようだ。つまりそれはアートそのものの形骸化、あるいは空洞化を意味する。

附則としてアントニオ・ネグリ『芸術とマルチチュード』を拝借するならば、ポッシュロストをめぐる現代アートの動向については、「特異的なものが抽象化、商品、価値といったものを再領有化する現象」とでも言えるのだろうか。

なお、アートのもつ本来的な意味での「価値」とは、マイケル・フィンドレーに言わせると下記の3点に収束される。

①商品的価値の維持あるいは上昇の可能性(将来性への投資)
②アートの理解を分かち合える仲間や社会の存在(社会的価値)
③美術品を楽しむ私的な喜び(文化的価値)

マーケットに支配されつつある現代アートの界隈には①はあれど、②③が蔑ろにされているのではないか、という点は前述した識者たちのコンセンサスである。短期的な投機を目的としスキャルピング(短期売買)よろしく売買されるアートを見てのことだ。

マイケル・フィンドレーやハル・フォスター、あるいは一部のアート・コレクターのいうように、「美を愛するからアートを集めるのであって、儲けるためではない」という考え方には賛成できるし、全てのコレクターがアートのスキャルピングをしているわけではないことも周知のことだろう。

また、トム・ワーリーも「純粋に金銭的要求を追求し投資をするにあたっては、アートの不安要素(維持、価値の変動等)が障害になる」と警鐘を鳴らしているように、純粋な投機対象としてアートを見ることを疑問視する声も少なくない。

ただ、現代において批評が意味を成さないことがしばしばある。つまり、そこにあるのは「名前=銘柄」という象徴化された個であり、それ以上でも以下でもないものに対しては文化的なリアクションを取ることができないからだ。むしろ、そのような状況だからこそ、「より高く、より大スケールで、よりスペクタクル」であることが求められるのかもしれない。

一般大衆に迎合するポーズを見せつつも(「ポップ・アート」として)、そのアートが開かれているのは一部の特権階級のみ、というオートポイエーシス的な円環運動に、アートそのもののポイエーシス(創造)も飲み込まれているのかもしれない、と私は感じている。

ただしそれはポップ・アート「以降/以前」に限ったことではなく、アンディ・ウォーホルの息がかかっていてもいなくても、マーケットにアートが支配されている状況を鑑みると、それそのものが現代のアートの抱える症候であるような気はする。

新自由主義的とも全体主義的ポピュリズム的ともいうそれは結局のところ同じ意味を指していて、それは「個(アイデンティティ/もしくはindividualityというかもしれない)の喪失」である。

形骸化したアート「界隈」という白い巨塔を前に、あるいはポッシュロスト化するアートを前に、我々は一体どのようなコンテクストを紡ぐことができるのだろうか?

特権階級が「より大声な、より高価な」アートを買い叩く一方で、一般大衆はメガロマニアックな虚像をアートに見出す・・この構造は、長い歴史で見た時のアートの本質、前述したアートの価値における②や③という前提を阻害する。

現代において画一化されたイデオロギーは全体主義的ポピュリズムが向かう匿名的で暗黙的な同調勢力である、とはスラヴォイ・ジジェクの談だが、アートにおけるメガロマニアックな虚像も、本質的には存在しないものであるという点で共通している。

どんな作品でも高いから素晴らしいわけではないのと同じように、あるいは素晴らしい作品が手頃で売られているから劣っているわけではないように、アートに対峙して何かを想うこと、それによって生まれるコミュニケーションこそ、アートの本質的な価値ではないか、とフィンドレーは語る。

個人的な考えとしては、アートにおける経済活動を否定するわけではないが、断絶された「アート/鑑賞者」の隙間を埋めるのはコミュニケーションの可能性、もう少し具体的にいうと批評なのではないか、と感じている。

アートの本質的な「価値」は値段ではない・・価格は移ろうものだ。そうではなく、アートの価値とは、アートが喚起する人間のリアクションそのものである。そして、アートは知覚という主観的体験に基づくものであり、批評に正解はない。

だが知覚そのものは特定の個々人に限定されたものではないからして、リラックスをして楽しみ、コミュニケーションを発生させる、そうした社会的な存在である、という根本的なアートという存在の本質について、改めて考えなければならないだろう。

我々に必要なことはこうだー臆することなく声を上げること、(眼前のものと)対峙すること、そして何より当事者であること・・断絶されたアートというものに対してコンテクストを紡ぐ所作、それこそが現代の我々に課せられた一種の使命のようなものである気がする。

【参考図書】


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