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生活保護の水際で

 うつ病で仕事を辞め、無職期間も長かった私は、わずかばかりの貯金を使っていない口座に残し、親からの援助に頼りきりで生活していた。すでに老後に入り、自分たちの暮らしだって楽ではないのに、療養に専念できるようにと成人一人分の生活費を捻出し続けてくれていた親には、本当に一生頭が上がらない。

 それでも、病状はなかなか良くはならなかった。どんなに薬を飲んでも、散歩や日光浴をしても、自分のせいで親に苦労をかけているという罪悪感と、働けない自分への失望と、「働けないなら生きている価値がない」と言う認知の歪みはどうにもならなかったのだ。

 発達障害の診断を受けたことも、良い面もあれば悪い面もあった。
 これまで何をやってもうまくいかない理由が発達障害の特性にあったとわかったまでは良くても、わかったからと言って、それが治せるわけではない。自分が社会に出ても、結局周りの足を引っ張ってしまうだけなのだと思った時、私はどうやって生きて行けばいいのかわからなくなってしまった。

「だから、もう死ぬしかないんじゃないかと思うんです」

 発達障害者の支援センターで泣きながら自分の気持ちを話し、最後にそう呟くと、担当相談員のMさんは、真剣な顔で私を諭してくれた。

「H谷さん、人が働くのって、食べて行くためだけじゃないですよ。たとえばですけど、生活保護を受けながら、働ける時だけ働いたっていいじゃないですか」

 生活保護と言う「最後の手段」が出てきたことに少なからずショックを受け、ますます項垂れた私に、Mさんは続けてこう言う。

「もちろん、他にもいろんな福祉サービスがありますけど、選択肢の一つとして、考えてみてもいいと思うんですよ」

 私はまだ頭がぐらぐらしていて、何も考えられなかった。

 それでも後日、まずは区役所で相談してみたらどうかと言うMさんの勧めに従って、私は手帳や自立支援医療の申請で行き慣れた障害福祉課の窓口へ行き、「経済的な問題で悩んでいて、相談に乗って欲しい」と訴えた。
いつも通り番号札を取り、待つように言われる。私の住む自治体では、障害福祉課と保護課の窓口が隣り合っていた。しばらく待つ間、保護課の方を何となく見ていると、さまざまな人が出入りしているのが見えた。
 そのほとんどは、普通に町を歩いていれば困窮しているようには見えない人ばかりだった。子連れの小綺麗なお母さんもいれば、会社員風にしか見えない男性もいた。
 私なんかより、よっぽどまともな人ばかりに思えた。

 ぼんやりしている間に時間が過ぎて、「〇番の番号札でお待ちの方、〇番の窓口までお越しください」と、私の番号が呼ばれた。

 障害福祉課の担当の職員は、私と同年代か、少し若いくらいの男性だった。彼はとても親切で、私が緊張で話し出せないのを根気よく待ってくれ、支援センターでMさんと話したことを説明する間にぼろぼろと泣いてしまっても、面倒そうな素振りもなく相槌を打ってくれた。そして、一通り話を聞いた後、こう切り出した。

「支援センターの方が言う通り、生活保護を受けるのも、方法の一つだと思いますよ。一度、保護課で話だけでも聞いてみますか?」

 そこまで覚悟を決めて来たわけではないので、正直かなり躊躇ったのだけれど、「今日すぐ申請する必要はないですから」となだめられ、私はそのまま保護課に相談してみることにしたのだった。

 すぐ隣の保護課の受付で「相談したい」と言う旨を伝えると、間もなく、担当者が私のところにやって来た。その体格のいいスポーツマン風の男性は、「Sです」と名乗り、私を相談用の個室に案内してくれた。

「本当はプライバシーに配慮しなくちゃいけないんですが、こういう時なので、開けっぱなしになっていて、すみませんね」

 コロナ対策が本格化し始めていたその頃、事務室側に繋がる扉は換気のためにわずかに開けてあった。そのことを断ってから、S氏はビニールのカーテン越しに私の顔を覗き込んだ。

「今は、どういったご状況ですか?」

 そして、私はまた自分の状況を1から話し始めた。うつ病で仕事を辞めてからずっと働けていないこと、主治医からもまだ復帰は無理だと言われていること、それでも、いつまでも親を苦しめているのに耐えられないこと。

「それから、実は発達障害もあって。あの、自閉症スペクトラムって言うんですけど」

 S氏は、そうですか、とうなずくと、おもむろに机の横に手を伸ばし、何かが印刷された紙を裏返した。

「わかりやすいように、紙に書きますね」

 発達障害のある人は、口頭での会話に難があることが多い。
 聴覚情報の処理がうまくできないタイプだったり、ワーキングメモリが少なく、ついさっきまで何を話していたかさえ忘れてしまうこともある。そのため、支援センターなどでも「紙を使って情報を整理しながらコミュニケーションを取る」というのが通例になっているのだけれど、まさか、区役所で同じ配慮をしてもらえるとは思っていなかった。

 内心、とてもありがたかった。
 配慮そのものもだけれど、「そういう特性を持つ人間がいる」と理解してくれていることが、何よりも。

 さらに、親からの支援を受け続けるのが心苦しいと言う私に、S氏は助言をしてくれた。

「親御さんには、こんなふうに伝えたらどうですか。『自立するために生活保護を利用しようと思うので、仕送りはもう大丈夫です』。親御さんも、ただ援助を断るだけだと心配するでしょうが、自立するためと言えば、わかってくれるんじゃないかと思うんですよ」

 そう言って、『』内の言葉も紙に書いて渡してくれたのだった。
 生活保護と言えば、家族の扶養を強要されて水際で断られることが多いとばかり聞くのに、S氏は、あくまで「私が病気を治せる状況になること」を、一緒に考えてくれたのだ。それは、もしかしたら区役所職員としては失格だったのかもしれないけれど、私にとっては、溺れているところに手を差し伸べてもらったようなものだった。

「今、貯金はどのくらいありますか?〇十万円?それなら、残額が十万円くらいになってからでないと申請が通らないので、その時にまた来てください。もしくは、今冷蔵庫とか何か必要なものがあるなら、それを買ってお金を使うと言う手もありますよ。何にしても、大丈夫です。お金のために働くだけが労働じゃありませんから、生活保護を受けながら、できる仕事をしてみたらいいんじゃないでしょうか。……僕はそんな風に思うんですけど、どうですか?」

 S氏は、最後には支援センターのMさんが言っていたのと同じような言葉で、私を励ましてくれた。

 私はその後、主治医にも相談をして、最終的に、S氏のアドバイス通り、親からの援助を断った。その後、障害年金の申請が通り、遡及分まで支払われたことで経済的にも精神的にも余裕ができ、何より親に負担をかけているという心苦しさから解放されたことで、病状は目に見えて改善した。

 体調が回復して、短期のアルバイトをするようになり、さらに長期のパートを始め……と言ったところで、今に至る。

 今のところ、私は生活保護を受けずに何とかやれている。だけれど、切羽詰まっても生活保護と言う選択肢があるのだと言うこと、そして、相談すれば生きて行く方法を一緒に考えてくれる人がいることは、私が生きていく上でギリギリの支えになっている。

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