【エッセイ】鴨のいる風景
昼飯を買いにコンビニへ向かってとぼとぼ歩いていると、近所を流れる小さな川の土手の上に人だかりができていた。
私も思わず野次馬スイッチを押され、吸い寄せられるように人ごみに加わって、眼下を流れる川に目を向ける。
カルガモの親子がいた。つがいが二羽と、その子どもたちが六羽。優雅にすいすいと水面を進んでいく親鳥に遅れてはなるまいと、風呂に浮かべる黄色いオモチャみたいな子ガモたちが懸命に泳いでいた。
「かわいー」「萌える」「カモやばい」など、幅広い年齢層の見物人たちがそれぞれの語彙を用いて、己のなかに芽生えたカモ愛を口にしている。私も周囲の圧に押されるように「イケてる」とつぶやいた。
ぎらつく真夏の太陽の下、穏かな時間が流れていた。そして思った──けど、君ら食うよね。カモ。
きっと今目の前にカモ鍋を差し出されたら、「可愛い」と言ったその舌の根が乾かぬうちに「カモ美味い」って舌鼓を打つよね。
私は食えない。カモは。ひょっとすると何週間も飲まず食わずで餓死寸前の状態だったら、生きるために食うかもしれないが、少なくとも今は食えない。
ふと、子どもの頃に訪れた牧場のことを思い出す。みんな可愛らしい羊たちと触れ合って遊んだあと、併設のレストランでジンギスカンを頬張っていた。誰もが屈託なく笑っていた。
羊は「可愛い」けど「美味しい」んだ──。
あのとき人々の頭の中では、どういった“正当化”が行われていたのだろう。ひょっとして「可愛いすぎて食べちゃいたいー」みたいな気持ちで「可愛い」が咀嚼され、ジンギスカンを満喫していたのだろうか。可愛いからこそ食べたくなるのか、可愛いけれど食べたくなるのか。いったいどの時点で、あの牧場の羊は人々にとって愛玩の対象から、単なる食材に変わったのだろうか。
今カルガモの親子を眺めているこの人たちの言う「可愛い」は、どういう「可愛い」なのだろうか。
急に思考がぐるぐるしだした。隣の老夫婦に「カモ可愛いですけど、食いますか?」と訊いてみようか。「今夜は鴨南蛮ですか?」とか。それではダイレクトすぎるだろうか。だったらまずは「あの子、肉付きがいいですねー」と遠回しな発言で牽制してみようか。そんなことをしたら、ヤバい人だと思われるだろうか。
向こうからまた「カモ可愛いー!」の声が弾けた。
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寄稿ライターさんの他メディアでのお仕事も。写真もたしなむライターの安藤エヌさんが、細田守監督のアニメ版『時をかける少女』について綴っています!
最後に編集長の翻訳ジョブを。暑い日が続くなか、異星の海に潜って冒険するSFアドベンチャー『In Other Waters』はいかがでしょう!
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