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【エッセイ】焼香の手順

作法というものに基本うとい。

元々世の中の不文律を察する能力に欠けてはいたが、特にフリーランスになってからは、なけなしの社交性を発揮する場もほぼ失われ、たまに社会との接触を求められると、何かをやらかす確率が格段に上がった。

先日も、生前大変お世話になった方の通夜に、白いネクタイ姿で乗り込むところだった。

確かにエレベーターの中で鏡を見ながら、自分の仕上がり具合を最終チェックしているときも、「なんかこれ違くね?」と違和感を拭えずにいたのだが、五十路を前にして腐りかけている我が脳は悲しいかな、その場で正答を導いてはくれなかった。

最終的にどうして気づいたかというと、一旦外したネクタイの締め方をど忘れしてネットで調べていたら、動画で解説している親切な人たちが皆、黒いネクタイをしていたからである。

念のため、家人にもラインで確認する。すぐさま、失笑まじりに「黒でしょ」と言われた。そりゃ葬式は黒だよな、と思った。

そのあとコンビニで黒いネクタイを買い、このときは一生の恥を晒さずに済んだ。

そして、こないだのコロ沢の葬式の場で。

色とりどりの花で飾られ、大好物の海苔を手向けられたカゴの中のコロ沢が、火葬炉のある部屋へと運ばれ、いよいよ最後のお別れのときが訪れようとしていた。

もっとも“女優”と親しまれ、猫にしては長寿である十七歳まで生きたコロ沢だ。ホスピス(私の書斎)にやって来た九か月前には「もって二週間」と聞かされていたから、むしろよく生きたほうだと思う。

だから湿っぽい空気は一切なく、皆ピンク色のヴェールをかぶった(かぶらされた)コロ沢の遺影に笑いながら、旅立ちの瞬間を見届けようとしていた。

そしてついに火葬炉の扉が閉められたそのとき、私はひとつのものに目が留まった。

焼香台。

あれ、焼香ってどうすんだっけ?

マジで忘れていた。あれって箱の右側のおがくずみたいのを右手でつまんで、鼻先まで神妙に運んだのち、左側の燻る何かの上に、イケメンシェフよろしく振りかければよかったのだっけ?

それともその逆で、燻る何かの周りの砂をつまんで、同様の手順を踏んだうえで、やはりイケメンシェフみたいに右側のおがくずの上に振りかければよかったのだっけ?

それを二度やるんだっけ? 三度やるんだっけ?

振り返ってみれば、これまでに人間や猫の葬儀の場で、自分が一番に焼香をしたことは一度もない。だからたとえ作法がうろ覚えであっても、誰かが先にやるのを見てから、それっぽく真似をすれば事なきを得ていたのだ。

だが、今回はまずい。

焼香台の前には、私を先頭に右へ向かって、扇状にほかの三人が立っている。どう見ても私が一番、焼香台に近い。やばい。このままでは私が最初に焼香する羽目になってしまう。

そこで一歩下がってみる。

こうすれば少なくとも焼香台からの直線距離は、右隣の家人と同じになったはずだ。そして心の中で「一番はない」と強く言い聞かせ、現実の黙殺を試みたが、家人はそんな私の懊悩など毛ほども慮ることなく、私を肘で小突いて焼香台のほうへと押し戻した。

やるしかない。

焼香台へ向かってのろのろ歩みながら、確か右から左へ三回のイケメンシェフだったはず、と考える。だが自信がない。

ここで一番避けるべきことは何だろうか。言うまでもない。それは焼香の手順を間違えることだ。なぜならそれはコロ沢にも失礼だろうし、いい年した大人として、とても恥ずかしいことであるばかりか、ひょっとすると、ほかの三人も私のやり方につられて間違った作法で焼香してしまい、葬儀場のスタッフ全員の失笑を買ってしまうかもしれないからだ。

もしそうなったら、私は自分を許せない。皆に申し訳が立たない。

焼香台を前にして逡巡したのち、私は覚悟を決め、落ちぶれた道化になったつもりで「あれれ、焼香ってどっちからやるんだっけ?」と家人に訊いた。

家人は呆れたように「右から左」と吐き捨てた。

そうか、やっぱり右から左でよかったんだ。合っていたんだね。私は仄かな悔しさを苦笑いでごまかしながら、誰もが認める正しい手順で焼香を行った。

そして何事も一番にやるのは避けよう、と心に誓った。

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最後に編集長の翻訳ジョブを。半分ほど翻訳しました、大好評の西部劇風アクションRPG『Weird West』(PS4/PC/Xbox)はいかがでしょう!

これもう猫めっちゃ喜びます!