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【スポーツ批評 第1回 第1章 対資本主義の構図 第3節】

スポーツ対資本主義

 サッカー以外のスポーツにも個々の本質があり、その本質が資本主義によって失われてしまうというケースが他にもある。F1では2016年シーズンから予選方式が大幅に変更された 。2015年までの予選方式では能力の劣るチーム、ドライバーでも何回かタイムを計測することができていたが、新ルールの導入によって、1回目のアタックで最下位になったドライバーは2回目の走行チャンスを与えられぬまま脱落してしまう事態に陥った。さらには、セッションが終了するまで順位の上下動が活発だった(最後の1秒まで各ドライバーがアタックしていた)のに対し、最後の1分間に誰もタイムを計測することがない、空白の時間が生まれる事態に陥った。F1は世界最高のスピードレースであるが故に、各ドライバーたちは100分の1秒、1000分の1秒という日常とはかけ離れた、非常に短い時間の範囲内での競争をしている。この時間の希少さがF1(予選)の本質であるが、新予選方式は、その時間を持て余してしまった。“つまらない”予選への強烈な批判によって、第3戦目からはあっけなく以前の方式に戻されている。FIAは90秒ごとのノックアウトという予選方式の導入によって、ハラハラ、ドキドキといった興奮材料を取り入れ、観客数を増やし、収益を上げようとしたという捉え方もできる。ただ、F1は資本主義や大衆性に対して拒絶反応を起こしたのである。

 世界で最も親しまれているスポーツは当然サッカーだが、日本では野球である。先頃Bリーグの設立、開幕に伴って地上波でバスケットボールの試合が放送されたが、Jリーグをはじめ、ほとんどのスポーツは地上波で放送されることがない。視聴率が最も重要視されるテレビにおいて、まだなんとか収入が見込めるプロ野球は中継を許されている。経済的な理由によって特権を得たプロ野球。当時はテレビ局の財布を潤す特別な存在として今よりも重宝されていただろう。ここに誕生した野球とテレビの関係について、それまでのスポーツ批評とは180度違う視点から切り込まれた『プロ野球批評宣言』で掲げられている「反テレヴィ論」では、視線を管理するテレビの存在が「プロ野球に注がれるべき残酷な明視をいいようもなく曇らせている 」と指摘されている。テレビが、「グラウンドにいるすべての人間がいっせいにばらばらと動き出し、そのなかで秩序と無秩序とが不意に混淆する三塁打の美しさを奪い、大胆さと繊細さが矛盾なく共存する離塁の一瞬を奪い、その他、われわれを魅了するベースボールのあらゆる生彩を著しく滅殺 」と「刻々と生起し消滅する「事件(ベースボール)」のその複数性と一回性とに対するやましい抵抗 」によってベースボールをダメにするという激越なまでの批判からもわかるように、野球を大衆化させたプロ野球中継は野球にとって有害であると捉えることができる。F1の例のように、スポーツにエンターテインメント要素を導入しようとすると摩擦が起こる。ところが、エンターテインメントは大衆を呼び込み、大衆が経済効果をもたらすという循環が存在するため、スポーツもその影響を受けてしまうのは必然なのだ。


 スポーツと資本主義の摩擦はあらゆるところで起こり、この摩擦によってスポーツの本質が失われかけているのが現状だ。サッカー界やその他のスポーツ界での同時多発的な対資本主義戦争の加速は、今、欧州各国で起こっているテロに投影できる。又吉直樹の『火花』が芥川賞を受賞したこと、ドナルド・トランプという経営者が大統領に選ばれたことに代表されるように世界中、あらゆる分野において顕在化しているこの争いは、本論文の重要なキーワードである「批評」を窮地に追い込んでいる。

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