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むしろ「肩書きのある人」の言うことを信用できなくなってしまった話

今回もめっちゃダークなもやもやを書いていきますよー。

私はいわゆるギリギリ「氷河期世代」ってやつです。

そして、次の4月で42歳になります。

年を重ねるごとに、世の中の変化が年々早くなっていることを感じ、それについて必死に追いつこうと情報をとりながら、変化の都度、対応できるように「悲観的に準備する」ことを続けていますが、いよいよ疲れてきました。


誰の言うことを信じてきた?

小さい頃から「いい子でいること」をいろんな見えない何かから無意識に強いられてきました。

いい成績をとること。
学級委員とかになってクラスをまとめること。
スポーツチームのリーダー。
強い部活に入ってレギュラーになること。
先生のお気に入りになること。

身近な存在でいうと、自分の両親。
そして次に学校の先生。
その次くらいに習い事の先生とかかな。

これらはすべて、まだ「学校というコミュニティ」しか経験できていない、そして未熟で十分な判断能力が備わっていない子供にとって、社会において進むべき方向はざっくりこっちだよって導いてくれる人達だったと思っています。

まだ社会を知らない子供は、その人達のいうことを信じて進むわけですね。

そして高校あたりで、強制的に自分はどういう人になりたいのかをほぼほぼ決めないといけないタイミングが訪れます。

このころまでに、「自分は何になりたい、どういうことがやりたい、どういう人になりたい」っていう具体的な目指すべき目標がある人は問題ないかもしれませんが、ない人も方向性を決めないといけなくなるんですよね。

例えばうちは、学部は何でもいいから県内の国立大へ進学することを望まれていましたが、私のやりたいことがないのに何で・・・という不満がありました。

いい成績をとっていい高校へ、いい大学へ行けばいい会社に入れる。いい会社に入れさえすれば将来安泰。

まわりの大人の考え方がこんな感じでした。

社会にでてから、誰の声が響いた?

私にとっての「社会に出た」は、最初の就職。つまり、大手企業に契約社員としてだけど就職したこと。

私の家族は、正社員ではないことに関してを除けば、大変喜んでくれた。

「娘さん、どこにつとめてるの?」

「東京で○○で働いてるの」

この○○の部分がきっと自慢だったでしょう。

そして今、私と母が介護している認知症の伯母。

伯母は昔大学受験に失敗しながらも、努力して某大学の医学部研究室で働くようになり、教授の助手だったり学会だったり、そういった「肩書き」がすべてという考え方の人だったので、「なんで正社員じゃないのよ」というようなことも言われたこともありましたが、企業名を聞くと、「まぁそこなら安心よね、正社員になれるようにがんばりなさい」という感じでした。

その前は、大学に進学しないことに対して大反対を受けていました。

大学卒でないとこの先の人生困る、と。

両親ではなく、伯母に反対を食らう、という。

父は比較的、好きなようにやればいいよ派。

母は、世間体を気にするタイプ。(だからといって押し付けるようなことはしない)

伯母は、学歴経歴至上主義者。ちなみに生涯独身。一家を自分が支えているというプライドあり。

だからといって、そういった様々な声の言う通りに私はしなかった。

だけど、私にとって一番大事なのは母の意見だったので、「お母さんのために、お母さんが喜ぶ方向に」をベースに物事を決めがちであったことも事実。

迷ったら母にどう思うかをいつも聞いていた。

仕事中はどうだっただろう。

仕事での上司や先輩という存在が新しくできる中で、様々な上司、先輩の言うこともまた様々。

そして私は異端児だったので、大手企業なのにスニーカーで出社してみたり、トップスにスウェットや大き目のニットカーディガンなどを着ていったり。

髪の毛も結構明るい茶色にしていった日には先輩に呼び出されて「明日黒く染めてこい、部長に嫌われるぞ」という説教をくらう、そんな新入社員でした。ちなみに先輩も、そのまた先輩からプレッシャー食らうんですよね。「お前、後輩に教育できてねーぞ」ってね。

今では人は外見ではなく、スキルを持っていれば最低限どんな容姿でも構わない、仕事ができて会社に貢献できればよい。

そんな風潮ですが、当時は上司、先輩にまず気にいられないと、スキル云々の前に信頼を得ることからしてできなくて、それでいて新入社員だから仕事を教わらなくてはキャリアアップが図れないわけですから、仕事も教えてもらえないですよね。

一番初めに必要なことは「会社の人たちに気に入られること」が最重要であり、私はそんなことに気を使いたくない人だったので、異端児と表現したわけです。

そんな時代でも、私のことをかわいがってくれる上司もいました。今まで振り返っても、一番最初の会社のとある上司が、一番私にとって最高の上司でした。

私の中身をちゃんと見てくれて、気持ちにも寄り添ってくれた上司は後にも先にも、この上司しかいません。(あ、服装のことも社会常識のことも、ちゃんと注意されましたよ笑)

この上司の言うことは、どんなことがあっても信じよう、言うことを聞こう、何かあったらこの人に絶対相談しよう、そう思えた人でした。

尊敬と信頼というものを初めて持つことができたんですよね。

他の上司や先輩と何が違ったかっていうと。

部下のミスなどに対してきちんと責任をとってくれる上司だった、ってところです。

おかげで私はその上司の部下でいた間はのびのびと成長できたと思いましたし、海外経験も積ませていただきました。

もっというと、私をのびのび育ててくれた担当営業マンの先輩も一人いたんですけどね。上司の方が直属だからランクが上にしてます(笑)

そして、もっと偉い役職の人には感じなかった。だって、そのまた上の役職の人にこびてるんだもん。げーって思いました。いつもとなんか違うやーん、って。

その人に対して尊敬できる部分を見いだせないと、信頼を持つってできないんだよな~って実感したエピソード。40歳過ぎても、20歳くらいの時に世話になった初めての上司が一番だったなんて。

一番最近のエピソードですが、フリーランとして直近で一緒に仕事した会社の社長があり得な過ぎてこっちから仕事を終了させていただく決断をするという事態にまでなりました。

信用できない会社と仕事をしてるだけで、自分の価値を下げるからです。

履歴書や職務経歴書に書く「役職」「資格」とかって信用できるの?

就活してると、当たり前ですが履歴書と職務経歴書を書きますよね。

で、○○株式会社入社、退社、とかって、履歴を書いていきます。

資格の欄には、○○年に△△という資格を取得とか書きます。

職務経歴書には、○○会社で△△をいう役職を経験し、どういったプロジェクトに関わってきましたとか、どういった業績を達成しましたとか、そんなことを書きますね。

で、これまでの話をとおして、「いい大学をでていい会社に就職して年功序列で役職についた人達」の役職と職務経歴って、どうなんだろうって。

ちなみに私の世代は冒頭にも書きました通りギリギリ氷河期世代なので、運よく就職できたとしても、転職するというタイミングで上がつっかえていて役職に就けてる人は周りでもなかなかいないし、年功序列上ではいよいよ役職について給料もアップか!?というタイミングで今度はジョブ型雇用システムを採用するところが増えてきて、スキルがある人がいい給料をもらえる成果主義ってなってさ、今まで上司とかに忖度しながら頑張ってきたのに「給料上げたけりゃスキル身につけろ」って急に変わってしまった。

私は契約社員だったことが良かったのか悪かったのか、その波に乗る前に契約満了を迎えてしまったので、いろんな会社を経験することになり、その分いろんな業界、業種、いろんな上司、ビジネスパーソンと関わることになるのですが。

あわせて、スキルを身に着ける=資格をとる、という思考になると思うのですが、「資格を取るための勉強」はしても、実践で役に立てているのかが大切ですよね。「資格はあるけど実務は未経験です」では、結局その人を採用してもイチから教えなければならないわけですから。
資格を書いている人ほど、「この人実務できるひとなのか?」と私だったら疑ってしまいます。

※資格取得は意味ないといっているわけではありません。国家資格を持っている意味はとても大きいと思いますし、資格がないと仕事にできない業種だってありますから。

職務経歴書の「役職」と実績も、年功序列制度で獲得した役職でありその上での実績だったとしたら、果たして真のキャリアなのか?

こんな感じで、「肩書き」がある人ほど信用できなくなってしまっている私でございます。

民間資格と資格ビジネスに思うこと

民間資格が増えてきましたよね。そして、その民間資格も多くなりすぎて、「この資格もってるんですか!?」と面接で話題にできる人もいれば、履歴書に書いても面接官に鼻で笑われてしまうようなものまで本当に様々です。

書くものが多ければいいってわけではありませんし、希望している企業の業種と全く関係ない資格ばかり書いてあっても、「これがウチで役に立つと思って書いているのか?」と逆にマイナスイメージになるのでは。

民間資格の受験に掛かる費用を見ても、テキスト代、問題集代、そして受験料。特に受験料なんて、「この資格なんでこんなにするの?」ってものとか、多くないですか?

はたまた、何万円する講座を受講すれば、認定証を受け取れます。晴れてあなたは○○カウンセラーです。

・・・とか。

講座をうけるだけで実務経験ゼロなのにカウンセラー名乗れるとか、私はちょっと抵抗感ある。そういう人って、どうやって信頼を得ていってるんだろう。信頼って積み上げるものだと思っているわたしにとってはすごいことだと思う、本当に。有料でもいいからアドバイスいただきたい。

話が脱線しましたが、とにかく多くの資格を履歴書に書ければ有利、と思っている人は要注意かもしれません。

今は「真逆」かもしれませんよ。

職務経歴書でその資格を役立てた実務経験や業績を書くことができる。これが最重要です。

こんなに資格がある、なのに職務経歴書にはそれら資格に関する業務経験、実務経験がない。・・・これが一番痛い。

資格がなくても、職務経歴書でどんな業務に関わってきたか、どんな業務改善を行ってきたかをたくさん書いてあった方が、資格はあるけど実務経験ない人よりも圧倒的に「使えるヤツ認定」されるに決まっています。

・・・そして、就活をあきらめた人、雇用されることに向いていないとリタイヤした人はフリーランスになろうとします。

一週まわって「肩書き」とは

自分をよく見せるためのただの鎧なんじゃないかって。

「肩書き」って、成功者が持ってるもの、みたいなイメージ。

要はみんながほしい「何者(なにもの)」を言語化したものが「肩書き」。

それがほしいんですよ。名乗りたいんですよ。

それが一週まわったわたしの解釈。

でも、肩書きだけじゃ本質は見えてこないのではないでしょうかねー。

だから、人との関わりが苦手な人は例えばこういうnoteとかで発信するのかな。最近ようやく気が付いたけど、なんか意外とビジネス発信も多いですよね、noteって。

つい最近Amebaブログのキラスピ系の○○カウンセラーのお茶会報告ブログのそれがウザくてnoteに速攻で引っ越しした件をテーマに書きましたが。

で、主観としては、「生きづらい系の人」の発信がすごく多い。これは私も含めて。わたしも超絶めんどくせーやつなんすよ。

HSP系のテーマの記事のスキが圧倒的に多くいただきますし。(私のイヤなかんじの感情ブログを読んでいただきありがとうございます)

人と関わることが苦手な人が本当に増えてきましたが、そもそも人と関わらないことには、その人の本質は少しも見えません。関わる前のその人に対しての想像はあくまでも自分が抱くただの想像でしかないのだから。

例えば、人と関わることが苦手だから会社で雇われることに向いてない。
だからフリーランスが向いてるんだと思う。自分に似た人に寄り添えるカウンセラーになりたい。

・・・みたいな文章、よく見ませんか?

わたし、フリーランスしてますが(カウンセラーではない)、フリーランスこそ人との関わり方が最重要です。

仕事を自分で獲らなきゃいけないし、とるために自分をアピールしなければいけないし。報酬額の交渉だって自分でするんだし。

なんでも自分でやらなきゃいけないから、できないことについてどうにかして知識のある人から助言を得ながらこなさなきゃならないことも多いし。

「肩書き」があるだけではお客様は勝手によってきません。

いろんな発信をして、「自分はこういう人なんです、よかったら絡んでください」っていうのは全然いいと思うし、賛成。私がそうだし、「そう!私も同じこと思ったよー!!わかる―!!」って共感したいし、そういう仲間増やしたいから。

でも、そういう発信からあわよくば顧客を得ようみたいな下心がある記事はなんか、わかっちゃいませんか?

ついでにいうと、悪いとは言ってないし、思ってもいない。

でも、なんか先にある透けて見えるものを感じちゃうと萎えるっていうか。

それは私の感覚の話であって、否定しているわけではありません。

私にとって、

どんな人が信用できる人なのか。どんな人が信用できない人なのか。

そのひとつの基準とエピソードを書いてみました。

さっきも書いたけど結構ひねくれもののめんどくさいヤツなんでねー、私って。

でもそれって、「そんな細かいとこまで見るか!?」ってとこまで気になっちゃう部分があるが故の弊害というか。

少数派かもしれないし、意外と多く共感してくれる人がいるかもしれませんが、果たして・・・!?

・・・

最後までお読みいただきありがとうございました!

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