見出し画像

その豊かさの裏に

私は、自分のことを豊かな人間だと思っている。
言葉を変えれば、幸せな人間だと思っている。
生活を維持できる収入があって、雨風凌いで安心して眠れる家があって、語らえる友達がいて、身を纏える服がある。
自分のためと考えれば、これでもう充分である。

でも、ふと思う。
この幸せを齎しているのは何なのか。
この幸せは何の上に成り立っているのか。

スイッチをつければ電気が着く。
当たり前のことである。
でも、これは本当に当たり前のことなのだろうか。
電気という技術を発明した人がいて、電気の工事をしてくれた人がいて、電気を送電してくれている人がいて、電気を発電してくれている人がいる。
そして、電気の多くは化石燃料が使われている。
電気を使うたびに、今の科学のエビデンスでいけば、温暖化に加担しているとも言える。
つまり、この電気を使うという豊かさは、色々な人の苦労や、温暖化に加担しているということの上に成り立っている。

100円均一で、お買い得なものを買う。
なんだか得した気分で嬉しくなる。
では一体、何故、こんな素晴らしいものが100円で買うことができるのか。
石油という安い化石燃料を使って作られたプラスチック製だからかもしれない。
劣悪な環境、安い給与で働く、発展途上国の人の労働の賜物なのかもしれない。
もしかしたら、そうじゃないかもしれない。
でも、流通コストや、店舗での人件費、家賃、広告費等、色々考えていけば、原価やものを作る人に渡るお金など、わずかなものなのだろう。
それを100円で買ったことにより生まれた、その束の間の僅かな幸せは、一体何が齎してくれたものなのだろう。
その豊かさの裏には一体何があるのだろう。

もちろん、安いもの全てが、何かの犠牲の上に成り立っているわけではないと思う。
でも、少なくとも、安いということには何か秘密があり、どこかしらに皺寄せが行っている。
冷静に考えれば、これだけのものがこの値段で買えるというのは、決して自然なことではないように思う。

私も善人ではないので、便利なものにも頼るし、安いものも買ったりする。
でも、忘れたくないと思うのは、この体感している幸せは、自分一人で生み出したものではないということ。
名もなき誰かの命の上であり、父母をはじめとする先祖の上であり、その全てを包括する豊かな自然の上であり、その他多くのものの上に、この幸せは存在している。
だから、この幸せを享受している人間として、その裏にある悲しみや、犠牲に思いを馳せ、手を差し伸べる義務があるように感じている。

偽善と言われるのかもしれない。
それは一向に構わない。
その通りなのだと思う。
それでも、豊かな人間として、やるべきことがある。
やらねばならないことがある。
またまだではあるけれど、私は出来ることを粛々とやっていきたいと、そう思っている。

見ていただけたことが、何よりも嬉しいです!