見出し画像

正しいと間違いの止揚したその先に

正しいものはない。
20代の後半に、そんなことを思った。全ての争いは正義対正義であり、誰かにとっての善は誰かにとっての悪だったりする。人を殺してはいけない。多くの人がそう思っているにもかかわらず、人を殺してしまった人を処する死刑を認める人も一定数いる。正しさを証明するものの正しさを証明するにはどうしたらよいのだろうか。

正しいものはない。
そうだとするなら、一体、僕らは何を目指せばいいのだろうか。良かれと思ってやったことが人を傷つけることもある。じゃあ、「何もしなければいい」となるのだが、そんなことはできない。僕らは、ただ生きていくだけでも、息をして、生物を食べ、排泄をする。それらの活動を通じて、この世界の何かしらには、影響を与えてしまう。「何もしない」ということもまた、一つの選んだ選択肢であり、パスカルが「すべての人間の不幸は、部屋に一人で静かに座っていられないことに由来している」というように、僕ら人間は、じっとなんかしていられない生き物であることを忘れてはならない。

正しいものはない。
それはわかった。そして、生きている限り「何もしない」なんてことは出来ないこともわかった。じゃあ、その運命から逃れられないのだとするなら、せめて、正しそうなことをしたい。そう思った。限りなく正しさに近いことをしたい。そう思った。限りなく正しいこととは一体何だろう。僕は、ここ数年、このことをずっと考えてきた。絶対的な正しさはないとして、限りなく正しさに近いものは何なのだろうかと。僕らは人間である。であるなら、人間らしくある、人間らしく生きることが正解なのではないかと、そう思った。じゃあ、人間らしさとは一体何なのか。理性と動物的本能。僕はそう考えた。イルカなど他の動物にも理性と本能を持っていると言われている動物もいるが、言葉が適切かわからないが、高度な理性を持っているというのは、人間の大きな特徴のような気がした。でも、同時に思った。果たして人類は、この高度な理性と動物的本能を用いて、築き上げてきたこの世界は、我々にとって幸せな世界なのだろうかと。今ここにある世界は、僕ら人類が望んだ世界なのだろうかと。そして、本当に、人類の理性は高度なのだろうかと。

正しいものはない。
きっとそうなのだろう。でも、ある時、気がついた。正しい間違っているという概念を超えて、この世界、この地球には、ある摂理があることに気がついた。それは、「全ては循環し、いついかなる時も多様に向かおうとする」ということだった。この世のものは、全て、増えもしなければ、無くなりもしない。形を変えて、循環し続ける。そして、その行為の中で地球は多様に向かおうとする。過去5回、地球には生命の大量絶滅の機会があったと言われている。それでも、その度に、地球はそこから多様に向かっていったのだ。今現在、6回目の大量絶滅の機会を迎えようとしているが、今回の原因は、人間活動であると言われている。人間の生活によって、豊かな生態系が失われようとしている。でも、きっと、豊かな生態系が失われ、人間が住みにくくなり、仮に絶滅したとしても、地球は何食わぬ顔で、また多様へ向かっていくのだと思う。人類がいない豊かな生態系に向かっていくのだと思う。人類がいようがいまいが、地球にとっては関係のないことなのである。そんな我々の考えるような、短い時間軸で存在していないのである。

正しいものはない。
きっとそこにあるのは、この地球上でどう生きていきたいかという、我々人間の意思と、それに伴う行動だけなのかもしれない。この生態系における人間の役割というのを自分なりに色々調べてはみたが、どれだけ探しても、僕ら人類の役割は里山しか見つからない。今のこの生態系における役割は里山だけなのかもしれない。逆に言えば、里山以外のことは、この生態系にとっては全部余計なことであるとも言える。考えてみれば、人間という動物として生きていくだけなら、生きていくだけの衣食住があれば生きていける。美味しいものを食べたいということも、可愛い服を着たいということも、良い家に住みたいということも、全て生きる上でのオプションであり、言ってしまえば、余計なことなのである。そして、往々にして、僕らの周りには、余計なことで溢れている。むしろ余計なものしかないと言っても過言ではない。その余計なことが、環境を破壊し、自ら地球を住みにくい場所にしている。でも、わかっている。人間の持つ理性、そこから生み出される文化があって初めて人間らしいと言うこともできる。そうであるならば、僕らは、もっとサステナブルな娯楽、文化を目指さなければいけないのではないだろうか。最低限の衣食住以外は全て余計なことであり、その余計なことが人間を人間たらしめるものだとするなら、そして、これからも人類がこの生態系の中で生きていきたいと願うのであれば、娯楽、文化の永続性、循環性を考えなければならない。そして、奇しくも、現在の環境状況を考えれば、我々こそが、それを再考し、実行できる最後の世代とも言える。

正しいものはない。
そんなことはわかってる。でも、僕は、ずっと、どこか諦め切れずに、せめて、限りなく正しいことをやりたいと思い、それを探し続けてきた。でも、やっとわかった。そんなものすら、この世には存在しない。それが、やっとわかった。やっとわかったというか、もしかしたら、この時初めて、「正しいものはない」ということを素直に受け入れられた瞬間だったのかもしれない。そんな指針を失った今、どうやって生きていけばいいのだろう。そんなことを考えた時に、ふっと腹落ちしたのが「自分がどうありたいか」ということだった。正しいものはない。限りなく正しいものもない。であるなら、この世界で自分はどう在りたいか、どんな自分でいたいか、それしかないと思った。正解がないなら、どんな自分でいるのが気持ちいいのか、どんな自分でいる時が自分をかっこいいと思うのか、好きだと思うのか、そこにしか指針がないと思った。であるなら、少しでも、自然に寄り添っていたいし、困った人には手を差し伸べたいと思った。それに気がついてから、より直感に素直になり、自分の気持ちに素直になれるようになった。自分がいいと思うことをやる。自分が好きだと思うことをやる。自分がかっこいいと思うことをやる。それを表現していく。それ以上もそれ以下もない。「自分はこういう価値観を持っています。皆さんはどう思いますか」という問いや、選択肢の提示をしていく。自分の価値観を押し付けるつもりもないし、誰がどんな選択をしたとしても、それを咎める気は全く起きない。でも、自分が知っていること、思っていることを提示することは、やっていかなくてはいけないと思った。それを選択するかどうかは、受けた人が判断すればいいと思うが、僕が知ってしまった、考えてしまったことは提示する義務がある。それはある意味ではそれがノブリスオブリージュのような気がしている。もちろん、これから色々なことを学ぶ中で、考えが変わったり、行動が変わったりすることもあるとは思うが、その瞬間における、自分にとっていいと思うことを選択し、表現し、誰かにとっての重要な選択肢を提供できるよう、これからも懸命に生きていきたいと思っている。

見ていただけたことが、何よりも嬉しいです!