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バブル崩壊で始まった(前編)

まずはバブル経済の崩壊。1990年代前半からでした。

バブル崩壊は最初、いつか来る来ると言われてなかなか来ない津波警報のような感覚がありました。本当にそんな大変なことになるの?という空気。

しかしやはりというべきか、予想通り、いや予想以上の巨大な経済的な津波が来ました。


1990年代初め頃、私よりいくつか上の世代はバブル景気の恩恵を受けた就職活動をしており、そのときに「超売り手市場」というものを知りました。

だいぶ上の先輩でしたが、彼は大学在学中謎の楽なバイトで稼ぎ、サークルで海外の合宿に行き、就職活動の時期には会社案内やビデオが企業から箱で送られてきて、しかも見もしないという・・・。

そのうちいつの間にか良い会社から内定をもらい、内定旅行で拘束され、卒業旅行でまた海外という生活を送っていました。

「私をスキーに連れてって」という映画がありましたが、まさにそういう学生時代を送っていて、とても羨ましいと同時にこんなことは絶対に続くわけがない、必ず変わり目が来て大変なことになるという予感が私にはありました。

映画「私をスキーに連れてって」 1987年製作/98分


なぜそう思ったのか。

それは「すべてが浮かれていたから」だと思います。

本当にすべてが浮かれていました。お金は学生でもバイトか何かで簡単に手に入り、たくさん使う。
普通の公立高校で、マルイのセールのために平日に休む奴がいました。休んで並ばないとDCブランドのスタジャンかパーカーか何かが売り切れてしまうらしいというのです。

それを聞いたクラスの人々は怒るどころか、「むしろそこまでするなんて、やるじゃん、さすが」といった雰囲気さえありました。
今ならそれはおかしいでしょと即答できますが、当時はなぜかそうではなかった。

しかもセールとはいえ価格は万単位で、彼はどこからそんなお金を確保していたのか未だに分かりません。

DCブランドは日本がキラキラと輝いていた1980年代のファッションムーブメント。ブーム最盛期の1987年1月のバーゲンで、新宿ヤング館に4500人が行列するまでになりました。


また大学では、バイト嫌いと公言している上の学年の先輩達(さっきとは別の人)が、謎の高級スポーツカーに乗って現れ奢ってくれました。女性がらみや危ない場所などではなく、ただ飲んで騒いだだけですが、もちろん一度や二度ではありません。

当時の雰囲気では、それほどおかしな出来事ではなかったと記憶していますが、今考えるとあのお金はいったいどこから出ていたんだろう?と思います。

結局私はおごられっぱなしでお返しもせず、その懺悔とともに、正直言って麻痺していた部分があったのは間違いありません。



そしていつの間にか景気が後退し、採用がなくなりました。もしくは、あっても条件が非常に悪いという状態になりました。

ただ、景気が悪くなりだしてから2~3年くらいは、「これは一過性の問題でまたすぐ戻る」と認識されていて、世間にそれほど切迫感はありませんでした。

それがまさか20年以上続くとは誰も予想していませんでした。


私は就職活動の際、職種の関係で採用が少しあり、なんとか就職することができました。
しかし入った会社の経営状況は非常に悪く、ブラックな職場でただ過重労働に耐える状況が数年続きました。とはいえ私は正社員でしたのでまだ良い方で、おそらく自分よりさらに大変な状況で過ごした人も多いと思います。

その頃から職場に派遣の人が増えてきました。
最初は派遣って自由でかっこいいイメージがありました。今では想像がつきませんが、当時はブラックな正社員とは違う新しい選択をあえてしたという気概が感じられ、大げさかもしれませんが「高等遊民」的な立ち位置すらありました。

おそらく当初は派遣業務の制限が厳しく、実際になれる人が限られていたからだと思います。2000年代に範囲が拡大して今のようになりましたが、現在の状況から考えてそれが良かったとは思えません。

労働者派遣法の歴史と法的な観点からの対応実務について、ポイントを解説します。

※後編に続きます↓


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