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安易な「ごめんね」で、悲しむ権利を奪ってしまった話

詳しくは控えるのだが、娘に悲しい思いをさせる事実を伝える場面があった。
それは、私の選択に起因する事実。つまりは、私が娘を傷つけてしまう事実。

顔をゆがめて大粒の涙を落した娘を見て、とっさに私は、「ごめんね」と謝った。
するとなんということか、事実を聞いて間もない娘は、私に「許す」と言ったのだ。
いや違う、正確には、私の「ごめんね」を受け、娘は「許す」と言わざるを得ない状況に追い込まれたのだ。

いつまでもそのことに恨みを持って生きてもいいとか、そういうことを言いたいわけじゃない。
ただ、悲しんだり、怒ったり、そういう当たり前の感情を味わう瞬間を、強い力で封じ込めてしまうことはどうなのだろう。

「ごめんね」という正義が、娘を「いい子」に仕立て上げかねないことを体験し、何の気ないひとことの恐ろしさを知った。

それと別日、娘はやむにやまれぬ事故的な状況で、また別の誰かを「許す」状況に立たされた。
相手に悪意はない。もちろん、その状況について、娘は許すべきだ。
けれど、悔しいとか、つらいとか、その瞬間に感じたそれは娘だけのもの。
それを外側から抑制する権利は、きっとどこにもないはず。

怒り、悲しみ、悔しさ、つらさ…、ネガティブな感情は何も生まないし、自分も他者も傷つける…そう考える方もおられるだろう。
けれど私は、これらを不要だと思わない。

感情はセンサーなのだ。
そうであってほしくない状況に、私たちは怒り、悲しみ、悔しがり、つらくなる。
その根っこにあるものを、ないがしろにしていいのか?断じて違う。
その感情ごと大切にしなければ、自分を大切になんてできないと思う。
まして、それを他の誰かが奪っていいわけなんてない。

娘から「悲しむ権利」をはく奪してしまったことに気づき、私は謝ったことについて謝った。
きっと娘には、訳がわからなかったと思う。
けれどその後娘は、私に「悲しい」「寂しい」をしっかりぶつけて、スッキリとした顔で自ら着地点を探してくれた。
ちゃんと挽回…できたかなあ?





…あ。もちろん、過度なマイナス感情については考えものなので、付け加えておこう。
怒り「すぎる」、悲しみ「すぎる」ことは、事態を悪化させかねないのでね。

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2-1心のおかたづけオンライン



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