見出し画像

1人の人間として、"私"として、生きると決めた日。


何者でもない私。何者かになろうとしていた、私。

私が生まれた意味は何なのだろうか。


13歳、中学1年生のときから続けてきた日記には、当時からそんなことを書き綴ってきた。とにかく自分の存在意義を見つけたかった。

見つけることで"安心"が欲しかったのだろう。私はここに居ても良い、生きていても良いという"証明"が欲しかったのだろう。




***


人が好きなものが同じように好きになれなかった。

「普通、これがみんな好きだよね。普通、みんなこうだよね。」「みんなで一緒にやろうね。」「友達は多いほうが良いよね。」


"みんないっしょに" "普通は〇〇"ということばが大嫌いだった。


周りと馴染めないのが嫌だと思う一方で、ひとくくりにされるのも嫌いなわがままな子供。疎外感。虚無感。いっしょになろうとしても、馴染もうとしても、私の心がいうことを聞かないのだ

「本当はこれは好きじゃない。」
「本当はひとりでいる時間がほしい。」
「本当は本音で語り合える友達と1対1で過ごすのがいい。」



違う、ということを認識した当時から、"違う自分"が嫌いになった。どうしてみんなと仲良くなれないのか。どうして私は空気が読めないのか、みんなを喜ばすことができないのか、みんなの役に立てないのか。


なんで私は生まれてきたのだろう。
どうしたら自分のことを好きになれるのだろう。


人に認められるため、好かれて気に入られるために、人から求められることをした。そこで得られた喜びは、ほんの一瞬だった。ほんの一瞬で、虚無感や疎外感がさらに増した。


何をしたら満たされるのだろう?
幸せになれるだろう?





***


尊敬できる仲間や、心震える芸術、本、信念のもと生きた人達。そんなこの世に産み落とされた素敵なものたちに触れた。自分の心と正面から向き合いながら、時に憂い哀しみながら生きていた。

そうしていたら、私の問いに対する答えが舞い降りてきた。


それは、とてもシンプルだった。

『自分が自分を認めてあげること。』


いつだって、何者かになることが"正義"だった。だれかの承認があれば自分を満たせる。だれかに好かれることで幸せな人生を送ることができる。

人と違うことは、"悪"だった。なかなか馴染めず、本音で生きると嫌われる。"悪"な自分は、存在する意味がないと思いこんできた。

"何者か"になることで私は世の中に認められ、幸せになれると思っていた。




でも、そうじゃなかった。


私はすでに、"私"だったのだ。


1人の人間として、生きる。それを実現するには、自分を律するための価値観や信念、それを自分と向き合いながら構築していかなければならない。

でもそれらを実現できたとき、私が私で生まれてきた意味を見つけ出すことができる。本当の意味での幸福、充実を感じられ、自己肯定感を得られる。



***

「"みんな"でひとくくりにしないで。」
「1人の人間として、観てほしい。」
「"私"は、ここにいるよ。」


子供だった私は、そう叫んでいた。
23歳になった私は、もっと大きな声で叫んでいる。


この世の中に"絶対的な正義"はない、と思っている。だから"普通"も"正義"も"悪"も存在しないのではないか、とも思っている。

本当は認められたいわけじゃない。「それぞれ、1人1人が特別だ」「それぞれが"違う"んだ」という事実の美しさをこの世の中に残したい。


だから、貴方の想いは持っている時点ですでに特別なのだと思っている。深めれば深めるほど、貴方にしか出せない味が溢れ出すものだと思っている。

だから、そんな特別な自分を認めてあげてほしい。そのままで素晴らしく美しい自分をもっと認めてあげてほしい。



1人1人が、特別。

想いは世界に放っても良い。

そんな想いを持つ、ありのままの自分を認めてあげても良い。

「ここにいるよ」って叫んでも良い。

そうやって"私"は、これからも叫び続ける。


アズ

この記事が参加している募集

noteの書き方

「温かで穏やかな光を見失わず、貴方が生きていけますように。」 そんな気持ちでnoteを届けています。 気に入ってもらえたら【スキ】【フォロー】 さらに【サポート】で応援して頂けるととっても光栄です。