『思惟/Speculation』
食や料理の原点として、食事という命題は「食というものは呼吸と等しく、生命の仕組みに組み込まれている」(P.156より引用)という一文は、非常に感銘を受けました。
シェーンハイマーの学説から紐解き、辰巳先生が辿り着いた‘‘食の本義’’は、これまで読んできた書物の中で今尚、余韻が残る一冊です。
「料理とは生命に向き合うこと、
そして愛すること、慈しむこと。」
『食に生きて』辰巳芳子
食や料理は私たちの日常生活において身近な存在である。
こちらの命題から食の意義を探求したい、そう感じました。
■1.映画館鑑賞原理主義とは何か?/劇場鑑賞の意義を問う
数ある新作映画の情報収集にあたり、私はシネマサロンという映画チャンネルを最近見ることを習慣として続けている。
毎週末に映画館へと足を運び映画を見る上でどのような映画を見るべきなのか、映画を見終えてからその映画についてのレビューを聴き、感想の答え合わせをする上でも参考にしています。
私が今回特に気になった回があり、それは‘‘映画館鑑賞原理主義’’という問題についてであります。
映画館鑑賞原理主義というのは、動画内でも述べられていますが、映画を劇場で見るべきであるという主義主張であり、私自身も映画にハマってから今回の内容については興味深く拝見しました。
テレビ画面やタブレット、スマホのスクリーンで映し出される映像と劇場で流される映像を比較するとその時に感じられる映画体験や感動は比べ物にならないぐらい劇場の方が大きいことは確実だと感じました。
今やNetflixやアマゾンプライム、その他の月額制のコンテンツを使えば、映画はいくらでも見放題ですし、一定期間我慢すれば見たかった新作映画も見ることは可能であります。
映像に映し出されるスクリーンの大きさや音響などは映画を見るにあたり、感動する度合いというのは大きく変わることだろうと思いました。
そうした中で『ホールドオーバーズ』という映画をこの間、映画館で見た時に本作は映画館だからこそしか味うことが出来ないものだと感じさせられることがありました。
物語は、全寮制の寄宿学校が舞台であり、学生や同僚からも嫌われている教師ポールは、クリスマスの休暇に家に帰れない学生たちの監督役を務め、学生の中にいたアンガス、寄宿舎の食堂の料理長として仕事をしているメアリー、年齢も立場上も異なる三人が、クリスマス休暇中に家族のように過ごす姿を描いていて心温まるものがありました。
接点ない三人だからこそ、それぞれ自分に持ち合わせていないものを持っていて、惹かれ合ったり、悲しいことや辛いこと、楽しいことにも共感出来たりする。
三人の持つ孤独感の大きさや密度というのは個人によっては異なるものだろうし、悩みを打ち明けたり、聞いたりと、孤独に寄り添うことで自ずと距離感は縮まっていくものだろうと思います。
クリスマス休暇は、たった二週間のことであるし、その短い期間の中で映し出される映像体験は直接脳内に語りかけられるものがありました。
こうしたリアリズムを肌身で体験出来るのは劇場だからこそなのかもしれません。
劇場公開されたものからある程度時間が経ち、DVD、ネット配信などに移ればいつでも好きな時に何度でも鑑賞することが出来ます。
ですが、劇場から離れてしまった物語の質は見る視点にもよりますが、劇場での感動をもう一度再現することは不可能だとも思います。
劇場鑑賞の意義というか、見る方法や見る上での考え方に正誤はないものだと感じます。
‘‘映画館鑑賞原理主義’’というのは、映画をこよなく愛する人たちのごく一部の考え方として、こうした考え方もあるということを知る必要はあると思いました。
■2.料理研究家と味の素の役割
私にとって今年から新しい趣味が出来ました。
それは、料理をすることです。
私が料理にハマるきっかけになったのは、料理研究家であるリュウジさんの料理動画を見てからでした。
リュウジさんと言えば、味の素を使って様々な料理を作るレシピを動画内で考案していて、私自身はリュウジさんの動画を見るまでは味の素自体を使ったことがなく、味の素というものに少し抵抗感を持っていました。
味の素というのは、そもそもグルタミン酸ナトリウムであり、これは昆布だしの旨味成分であると言われています。
味の素を使うことによって、料理に直接旨味を付け加えることができ、例えばアジシオなども味の素の一種ではありますが、アジシオは塩味によって味を調整出来ることもあり、味の素をかけすぎないバランスの取れた旨味を付け加えられるメリットがあります。
味の素は、化学調味料として使うことに敬遠する方々がいる一方、実際に使うことで調理の下ごしらえから仕上げまでをサポートする万能調味料だと言っても過言ではありません。
リュウジさんが記されました『料理研究家のくせに「味の素」を使うのですか?』では、味の素とは何か、味の素が生まれた歴史から、詳しい使用方法などが述べられています。
リュウジさんが、本書の中で言及されている内容で料理研究家の役割とは何かについてはとても興味深い内容でありました。
料理研究家というのは、家庭料理を手軽に美味しく作れるようにレシピを考案し、かつ美味しく食べてもらえるようにサポートする人であることを述べています。
家庭料理などは、調理工程をいかに少なく済ませて簡単に誰でも作れることができ、かつ美味しく仕上げることが最高のレシピであると思います。
リュウジさんのこれまでの動画において、味の素をフルに活用させた料理動画があって玉子とワカメのスープであり、こちらの料理は味の素がいかにあらゆる料理の調理において万能であるかや味の素を最大限に活かした過去一の動画であると思います。
味の素は、昆布だしの旨味成分であることは述べましたが味の素ではなく直接昆布から旨味を取り出す場合、昆布の雑味なども一緒に取れてしまうことがあり味の素では香りや風味を除き、旨味だけを直接加える働きがあって結果的に料理の美味しさを調和することが出来ることが一番の魅力だと思いました。
味の素を含めて料理研究家としてのリュウジさんの料理の秘訣、そして料理に対する情熱などを本書や動画から学んだことによって、更なる料理の奥深さや楽しさを感じることができ、食材一つ一つを大切に、食事することの喜びと幸せを考えさせられました。
■3.感覚から外れ、綴る
noteを始めて、もう3年になる。
初めは、書く前から書きたいものはイメージとして出来上がっていて、頭の中のモヤモヤとした抽象的な概念を言語化することで自分の中にある考え事や悩みなどを消化したいというような目的があったからだと思います。
noteは、基本アウトプット重視の専用メディアのようなものだと私なりには考えており、本や映画の感想から更に発展させた批評や評論まで、文章の構成を変えるだけで変幻自在にまとめることが可能であり、エッセイ感覚で資料なしに書き記すこともありますが、私はこうしたエッセイ感覚で綴るnoteの在り方の方がわりと合っているのではないかと思っています。
エッセイ感覚に綴ると言っても、根源的には頭の中にあるものをアウトプットしているのに過ぎないのですが、それは前提にあるインプットがあるからであり、ある興味深い記事を読んだことがきっかけでもありました。
若い時の無目的なインプットというと、私自身、無目的なインプットとはかけ離れた目的のあるインプットをこれまで取り組んできました。
きっかけとしては、自分の中の興味範囲の本や映画の内容を別の形へと変えて、自分なりの考え方としてまとめる、これこそが私が思うアウトプットの形であると考えてきました。
ただ、noteを書くにあたってのネタ探しの為ではなく、ニュースやエンタメ情報なども流し目で自然と取り入れているところがあり、このエッセイ感覚で綴る文章には無目的なインプットから無目的なアウトプットへと繋がっているのではないかと思いました。
noteは、目的のあるアウトプットではなく、無目的なアウトプットが浸透することでより文章に深みを与えることが出来るのではないかと考えさせられるものがありました。
■4.日常美学とは何か?/Vlogから読み解く
日常美学という言葉を知ってから、美学というものに興味を抱くようになりました。
日常美学というのは、私たちが何気なく過ごす日常生活の中で感性が果たしている役割を明らかにすることを目指す学問分野であり、日常美学について詳しく記された本を読みました。
美学とはそもそも、私たちの感性がどのように働いているのかを明らかにして、美学には哲学のように抽象的に思考することを通じて目的を達成する役割があります。
日常の中では、スポーツすることや食事をすること、映画を見ること、読書をすることなどといった文化的な営みまでを視野としてそうした営みから美的側面を感じるところから生まれたものだと考えられてきました。
例えば、料理というものは美的といえるか、もしくは美学に位置付けられ、芸術と言えるのかという問題があります。
料理を作るという行為は創意工夫が求められ、美術館で絵を見たり、音楽を聴いたりと、創造性が育まれる特性があるものだと考えられます。
家庭料理を作る時、それぞれの家庭によって卵焼きや唐揚げ、野菜炒めなど、味付けや使う食材もまた異なる場合があり、創意工夫しながら作った料理を食べてその料理の味からまた料理の全体像を通しての感想を考えさせられることがあります。
そうした感想について考えることや作ること、全てを含み日常美学として捉えることが可能であると思います。
本書でも紹介されていますが、Vlogというのは日常生活から窺える観察眼を鍛える上でもとてもタメになるものだと感じました。
Vlog鑑賞というのは、ルーティンからみる日常美学の発見に気づかされるものがあり、配信者とVlogを見る私たち側の鑑賞者の対比によって所作ひとつひとつから違いを明らかにすることができ、そうした所作から美的感覚を見ることによって理解することが出来るものだと思います。
日常美学には、私たちの美的感覚、感性を知り、理解する上でもVlogはかなり面白いコンテンツであると言えるだろうと思います。
Vlogを例に取りましたが、このnoteもまた、書き手の美的感性を象徴する日常美学そのものだと考えさせられました。
■5.『夜明けのすべて』『サイレントラブ』にみる特別な存在と心のケアについて
『夜明けのすべて』という映画と『サイレントラブ』という映画はかなり通じるものがあるなと感じることがありました。
物語の概要について、簡単に触れると『夜明けのすべて』という作品はPMSを抱える藤沢という女性と同僚の山添という男性はパニック障害を抱えていて、お互いに生き辛さを持ち合わせながら日々過ごしている。
仕事やプライベートで少しずつお互いのことを理解し合い価値観を受け入れることにより心のケアへと繋がっていく物語であり、友人や恋人でもない特別な存在の出会いに感動させられた作品でありました。
一方の『サイレントラブ』という作品は、ある過去が原因で声を失った青年、蒼と事故で目が不自由になってしまった美夏の二人はとあるきっかけで運命的な出会いをする恋愛物語であります。夢を諦めた蒼は、ピアニストを夢見る美夏の心の支えになり、自然と彼女に惹かれていき、純愛さと切なさが交わる中で、ラストはとても感動させられました。
『サイレントラブ』も『夜明けのすべて』も、心のケアを通して心に光を取り戻す作品としてはかなり良くて、心のケアをテーマにした作品ということを考える上で男女関係の存在、価値観の共有というのはケアにより心が満たされる要因にもなることだと感じました。
心のケアは、自己理解や感情の管理、ストレス解消などにより自己成長を促す重要な要素だと考えられます。視点を変えると、心のケアというのは私たちにとっても必要不可欠なものだと考えられます。例えば、文学や芸術の力で心のケアは解消されるものでもあり、芸術は、ストレス解消や感情の表現、心のリラックスなどに大きな効果があることが分かってきています。それ以外にも、音楽や映画などからも鑑賞し、そこから得るものは自分なりの汲み取り方がその先には求められるだろうと思います。『夜明けのすべて』も『サイレントラブ』どちらも、大切な人の存在価値が心のケアへと繋がっているものだと感じました。
■6.『システムクラッシャー』小論/心の解放により、求めるものへ
『システムクラッシャー』という映画をだいぶ前に見ましたが、とてつもない映画体験をした感覚を覚えたことを今でも記憶しています。
物語は、幼少期に父親から虐待を受けたベニーは、トラウマにより暴力的な性格へと成長してしまう。
特別支援学校へ行っても、ベニーのあまりにも狂気的な暴力性によって追い出されてしまう。
母親のビアンカは、ベニーに対しては強い愛情を抱いているのだが、狂暴な彼女にどのように接していいのかが分からなくて距離感が掴めないでいる。
母の愛情と娘の愛情は、常にすれ違った状態でいて彼女の抱える闇はなかなか払拭することが出来ない。
非行少年の更正を仕事にするトレーナーのミヒャという男に出会うことになるのだが、彼はベニーと共に山小屋で数週間生活をする隔離療法を実践する。
彼とベニーとのやり取り、少しずつではあるが、ベニーも彼に対して自然と心を開くようになり、ベニーは母に会う為に成長していく。
タイトルにもある通り、システムクラッシャーというのは、制御不能な攻撃的な子供を指す隠語であり、実際にベニーのような子供は実在する。
本作の見所は、間違いなくベニー役のヘレナ・ツェンゲルの演技力だと思いました。
福祉制度が整っているこの時代においても、社会の枠組みから外れてしまった子供は必ずいる。
愛を求めていても、自らを制御することが出来ない複雑な感情はベニーの心を蝕んでいく。
やはり、ベニー役のへレナ・ツェンゲルの演技力は神がかってたし『システムクラッシャー』は映画の中の世界だけの話でもない、かなりヘビーなテーマでもありつつ、家庭問題やベニーを取り巻く保護者たち、人間関係というのはベニーの言動によって彼女に対する差別的な意識へと向けられます。
暴力することで、自分を上手く表現することが出来ない彼女の心境はとても胸が痛い思いがしましたし、ベニーは私たちに暴力によって救いを求めているのではないかと考えさせられることもありました。
心の解放は、暴力という形によって転換される。
ベニーは、一貫して怒りを覚えてスクリーンを通して私たちに救いを求めている、そう感じさせられました。
■7.不在とあなた
『大いなる不在』という映画を劇場で見たのですが、しばらくの間見た感想を書けずにいました。
何とも言えない、観賞後に感じた余韻。
脚本や演出面に関しては、とても良く出来た作品であり、藤竜也さん演じる陽二という男の認知症から父の過去、ある真実に迫っていくヒューマンドラマでありました。
物語の概要としましては、父の陽二がある事件を起こして、息子の卓は久しぶりに再会することになります。
だが、陽二は認知症により私の知る父の姿ではないものだと気付くことになります。
陽二の再婚相手で義母にあたる直美の行方が分からなくなってしまい、直美の行方、そして陽二の心の遍歴へと辿っていく。
‘‘不在’’の意図を認識し切なさが募る思いになりながら色んな感情が沸き上がりました。
やはり、キャスト人の藤竜也さんを含め、森山未來さん、真木よう子さんの演技力とそれと連動し、物語の軸がしっかりとブレずに演出という形で成り立ち、劇中に流れる音楽が上手く相乗効果が効いていて作品の構図を立体的に浮かび上がらせる作用も働いているなと考えさせられました。
『大いなる不在』に限らず、認知症を扱ったある作品があり『スイマーズ』という作品があります。
『スイマーズ』という作品は、公営地下プールで泳ぐ常連たちの姿が描かれる中、泳ぐことが大好きなアリスという女性が浮き彫りとなる。
人称や視点を変えながら、‘‘彼女’’や‘‘あなた’’として捉え客観的に見る娘の存在が現れる。
認知症の母と娘の記憶と失われた物語を描いた作品であり、こちらの作品も大変面白く読みました。
『大いなる不在』における、父の不在。
『スイマーズ』における、母に対するあなた。
不在もあなたという言葉も、記憶や思い出の喪失という大きな問題点が浮かび上がってくるものだと感じます。
楽しかったことや悲しかったこと、嬉しかったこと、辛かったこと、人生における記憶と思い出はその人の自己成長や体験を通しての価値観の形成においても必要不可欠な要素とも言えます。
父や母の記憶や思い出を息子、娘らが辿ることで本当の親の姿を初めて理解することになる。
記憶や思い出をめぐることは、ためらいがちだが、どちらの作品も父と母が抱える病に真摯に向き合い、過去への認識から理解へと結び付かせる為の子たちの向き合い方に感動させられました。
■8.ネタバレを巡っての議論
映画にハマりだしてから、新作映画やまだ見れていない過去作品なども時間があれば、色々見ている。
同時に、映画作品の感想レビュー、紹介や映画関連の話をされているYouTuberさんもたくさん見る機会が増えました。
ある時、お笑い芸人のジャガモンド斎藤さんの動画でネタバレがどこまで許せるかという話がとても興味深い内容でありました。
確かに映画を見ての感想を話したり、書いたり、もしくは考察、評論としてまとめる人はSNS界隈上ではたくさんいますし、最近レビューを書いている私も含まれているなと思うことがあります。
YouTubeの動画におけるサムネで率直な感想として、面白かったとか、面白くなかったと一言で物語の評価というのが分かったりします。
ですが、その映画に対しての好評価や低評価という結果が直接ネタバレにはならないと言及されていて共感するところが多々ありました。
ネタバレというのは、SNSを開き、ネタバレ解禁サイトなどを自らが見ることで作品のネタバレを知ることになります。
どのように防衛すべきかと言えば、スマホ自体を開かずに事前情報を知らない状態で作品鑑賞に望めばいいと感じさせられました。
ネタバレと作品の感想レビューにおける境界線というのは、かなり曖昧なものだと感じます。
情報過多な社会では事実と嘘が混合した状態になっているので、そこから本当のことを見つけることは難しいですし、前述でも上げました通り、感想レビューや考察、評論などがイコールネタバレだと異常なまでに敏感になりすぎているのではないかと思うことがあったりします。
YouTubeという動画コンテンツでの映画紹介では、視覚的にネタバレなしとネタバレありの境目を作ってレビューされる動画もありますが、ネタバレなしやネタバレありの動画を見て作品の面白さが半減するのかということを考えるとそれは人にもよるとは思いますが難しい問題だなと思います。
ネタバレなしやネタバレありの情報を知ることによって見る前の作品の予習として理解へと繋がる為にはメリットとしても成り立つこともありますし、決して否定的な意見だけとは限らないと感じます。
ネタバレを巡っての許容範囲というのは人による価値観によって左右されるものだと考えられますし、なんでもかんでもネタバレだと決めつけて攻撃的になるのも間違いだと思います。
映画や本に限らず、ネタバレを知りたくなければ、SNSを閉じることから始めるべきだと改めて感じました。
■9.メタ構造的映画としての『デッドプール&ウルヴァリン』
『デッドプール&ウルヴァリン』という映画を見る前は、周りの映画好きな人たちの評判がかなり高いことを聞き、ニワカな自分でも楽しめるかなと期待しながら劇場に望みました。
始まった瞬間から一気に笑えました。
不死身の肉体を持つおしゃべり好きな自称‘‘俺ちゃん’’と自らを呼ぶデッドプール。
両手に三本の鋭い爪を持ち、暴れだしたら止まらないウルヴァリン。
彼らの共演は、映画宣伝の告知にもありました通り‘‘混ぜるな危険’’という意味を本作を見て納得させられました。
デッドプールやXMENシリーズに疎い自分でもこの映画はメタ映画であることは理解できましたし、なんといってもデッドプールの下ネタ全開で過激な会話のやり取りがとても笑えましたし、かなり難しいことを映画の中で描こうとしているんだなと感じました。
不死身の男であるウルヴァリンとともに戦おうとデッドプールはお願いするものの殴り合いどころか、絶対的にR指定必須でもある描写も過激すぎるだろと思いましたし、おバカ過ぎて最高でした。
デッドプール、無責任ヒーローがマーベルの救世主になるのか?って思うぐらいに規格外な展開でもありました。
メタ構造を持ち合わせながら過激表現が盛り沢山であり、見ている鑑賞者側にとってはそこまで苦にはならないもので、最終的にはブラックユーモアとして消化させてくれるのも何故だか不思議な感覚がありました。
ストーリー展開や登場人物たちのサプライズ感や劇中で流れる音楽の選曲はマッチしていて、なんでもありのやりたい放題な感じが出ているなと思いました。
物語が始まってからのアクションシーン、デッドプールが曲のテンポとリズムにのりながら敵を次々と倒していくところは一番テンションが上がったシーンでもありました。
映画を見るにあたり、映画機械の構造について論じている、とある本があり映画機械の理論から『デッドプール&ウルヴァリン』が何故、予備知識があまりなくても楽しめるのかが分かったような感じがしました。
映画はそもそも、スクリーン上に映し出される光と影の幻影を創造するものこそが映画機械によるものであって、現実とは別の仮象としての‘‘私’’は無数にある世界へと漂いながら、その場のリアリティを体験することができ、デッドプールもウルヴァリンもその場にいるかのような錯覚を覚えるようになる。
視覚と映画機械のメカニズムから、これまで長く続いてきた過去の映画作品による小ネタやファンの人たちにしか分からない細かな設定など、消化しきれないところの方がたくさんあった作品でありましたが、とても楽しめた作品であることに間違いはありません。
■10.再鑑賞する/再論『君たちはどう生きるか』
宮崎駿さんの『君たちはどう生きるか』を劇場で見てから、改めてもう一度見る機会がありました。
率直な感想だと、やはり過去作のジブリ映画に比べると難解ですし理解出来ていないところがたくさんあるなと感じました。
それは、監督の宮崎駿さんのメッセージ性が上手く私自身に届いていないところだと思うし、分からないけど、分からないことを含めての面白さがあると思いました。
作品を自分の中で消化し切れていないモヤモヤ感はあるものの、二回目を見た今でも頭の中は曖昧なままであるし、理解出来ないならば、理解出来ないでいいと思えることがありました。
本作が大傑作で面白いか、あるいは面白くないかは人によっては意見の異なるものだと思いました。
『君たちはどう生きるか』は、宮崎駿さんの全てが込められているものでありますし、大傑作であることは間違いないなと再鑑賞した上でそう感じました。
どれだけ鑑賞回数を積み上げても映画の深淵は永遠に理解することは難しいと思います。
エンタメ性として見るか、教養として見るかは個人に関わる世界ですし、映画の見方はどのような見方であっても自由だと感じます。
劇場で見ること、家で映画を見ることには明確な違いがあり、感動する度合いというのも変わってくるものだろうと考えられます。
スクリーンの大きさや音響、見る時の環境によって家で見る場合だとストーリーを十分に飲み込めないことが度々あります。
家で見る場合は、時間帯や映画を見る時のくつろぎ方、倍速視聴での鑑賞の仕方やトイレに行きたくなった時の一時停止、サブスクで見れる映画作品の幅広さなどあらゆるメリットが考えられます。
ですが、2~3時間という時間の中で、同じ作品を他者の方々と一緒に見て時間を共有するという空間は劇場でしか味わえないものがあります。
家と劇場で見ることにおいての理解度というのは、映画をたくさん鑑賞し、映画をこよなく愛する人たちでしか分からないことがあるのではないかと考えられます。
やはり、それはどれだけの作品を鑑賞してきたのかという力が映画を見ることによって積み重ねられるものだと思いました。
そして『君たちはどう生きるか』という作品は私の中で特別な作品になったことを実感しています。
【参考記事】
■11.『あん』からみる人生哲学
テレビの番組表で、たまたま録画していた映画『あん』という作品を見ました。
本作は、女優の樹木希林さんの最後の出演作であることを知り、他の作品でも度々お見掛けする女優さんで、私自身そこまで詳しくは知らなかったのですが『あん』を見てから、役者としての樹木希林さんの演技力にただただ圧倒されるものがありました。
本作は、どら焼き屋で働く千太郎のもとに、ある日、徳江さんという一人のお婆さんが求人を見て働きたいとやってくる。
彼女が作る粒あんは絶品でおかげで店も繁盛することになるのだが、徳江さんにはある秘密があり後に客足も遠のき徳江さんは事情を察し店を辞めてしまうことになる。
千太郎は後に、彼女の生い立ちから彼女の思いを知る。
私が徳江さんが発した言葉で、ある言葉がとても印象に残っている。
‘‘この世にあるものは全て言葉を持っている’’
‘‘私たちはこの世を見るために、聞くために、生まれてきた’’と徳江さんの一つ一つの言葉には深く重みがあり、生きる意味を問いかけるものがありました。彼女がどら焼き屋で、あんこを作る過程の中で、彼女独自の考え方があり、それは小豆が見てきた旅の話を聞いてあげるということで、小豆が感じた風や匂いを自分も知るということで、自らが寄り添うというものは徳江さんでしか作れない特別な愛情が詰まっているのだと感じられました。
彼女は持病を抱えており、たとえ垣根の外を越えられなくても、幸せであればそれでいいし、幸せというものは手の届くところにあるものだと考えさせられました。
『あん』は、今年見た旧作の映画の中では、断トツに素晴らしい映画でした。
なんせ、『あん』の主題歌である秦基博さんが歌う「水彩の月」は『あん』の世界観にぴったりと重なるものがあり、号泣せずにはいられない映画体験でありました。
■12.ケアとしての映画考
シネ・ヌーヴォで支配人として活躍される山崎紀子さんという方のインタビュー記事を読みました。
こちらの記事の中で、映画は心のケアへと繋がるものがあるということを知り、映画は本来娯楽として楽しむ為にあるものだと思っていましたが、心を療養する作用などの働きがあるということを理解し、映画を見るとき、作品にもよりますが、世界観に心身を溶け込ませる為に潜在的に意識を集中することで鑑賞へと行き着く。
集中することで、精神的なエネルギーも消費するが、物語に没頭することで映像から直接影響を受け、自ずと感性が磨かれ、劇中の人物たちの心情に寄り添い共感するまでの距離感が早いのも映画ならではの魅力だと感じます。
自分にとって、最高に面白いなと思える映画に出会い、出会いからまた数ヶ月、数年後に見返しても、ある時、人生に迷ってしまった時こそ本当に力になるものだと思います。
何度も同じことを言ってしまいますが、映画館で映画を見ることで感動の度合いというものは間違いなく変わってくるだろうと思いますし、自分が悩んだり落ち込んだりしたことがあっても前を向いて進もうという気持ちに切り替えてくれる。
作品から得られるものは、人によっては異なるものだと思いますが、その時に映画を見て分からなくても、月日が経てば分かる時があります。
ケアすることというのは、私なりに心の中のモヤモヤ感を取り除き、綺麗に掃除してあげることだと感じます。
映画館で映画を見ることは、こうした心のケアへの処方箋のようなものなのではないかと考えさせられました。
■あとがき
この記事を書いている間は、ほぼ映画ばかりを見ていました。
なので、記事自体は映画評のような構成となっています。
映画については、自分が個人的に見て面白かった作品を順不同に紹介して、感想を述べていますが、もしこの中に興味がある作品があれば、ぜひ鑑賞して頂けたら幸いです。
映画評を書くにあたり、本の感想を書くことと、映画の感想を書くことでは明らかに違いがあるような感じがありました。
本の場合は、活字を読んでから自分なりの解釈を加え、映画の場合は、映像を見てから自分なりの解釈を加え、こうした解釈の加え方というのはまず、物語の切り取り方というものが求められるものなのではないかと思いました。
本を読むことに慣れている人や、または映画を見ることに慣れている人との違いはピンポイントに気になったところを上手く切り抜く為の直感力や推察力に長けていないとこうしたことは行えないものだと感じました。
私にとって、映画を見ることは本にはないまた違う世界のことを知ることであり、本や映画になければ、音楽で新しいものを知る。
現段階の過程で、映画を見る鑑識眼をより極めていきたいとそう思いました。
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