『虚無と結実』-愉楽の批評理論-
-はじめに-
度々、何故私は文章を書くのかということについて考えることがあります。
ですが、なんらかの形で言葉を通して想いの先に誰かの心に伝える為だからだと私は自分に言い聞かせながらこれまで書いてきました。
そうした強い思いがあるから、だからこそ、書き続けていられているんだなと、そう思い『虚無と結実』という作品で現代の前衛小説を題材にひとつの作品=文芸批評をここに記しました。
■1.テクスト論における『街とその不確かな壁』の表裏性
文学における読み方というものを記号論的観点、もしくは構造的観点の立場から、テクストを読みあらゆる角度から批評することは難解であり、文学を読む場合、その他のテクストの読み方とはまた違ったものがあることを考える必要があります。
批評理論の中に、テクスト論と呼ばれるある批評があり、加藤典洋先生が記された『テクストから遠く離れて』という本で概要については詳しく述べられています。
作品という表現物は、作者との相互関係により成り立っているという考え方が根付いているものだと理解していたところがありました。
だが、テクスト論には作品と作者との関係性を切断させた理論であって、作品は単独で成り立つものであるということは作者とは繋がりのないことを指し示しているということになります。
表現主体としての作者、表現物としての作品と分ける場合、作家論としてもしくは作品論として個別に捉えてそこから文学理論、あるいは批評理論として論考を展開していくことによって表現論としての知見が深められるのではないかと考えさせられるものがありました。
ですが、そうしたテクスト論においても弱点、欠点があるということを本書では述べられています。
思想的背景や批評理論の構造については、相対的に論理的に展開させることが出来るのが、一般的なテクスト論の強みだということが理解出来ます。
ですが、新しい批評のあり方を自らが率先して説得させて価値を提供させることは難しい問題があります。
表現媒体としての作品について、作品には意味や価値が内在されるものであって、そうしたものは作者による作品に対しての表現活動や文学観が込められるものとしての考えが念頭にあることはもちろんのこと、物語性には作者の私小説的な感受性、心身性があるという認識については、大衆小説、エンターテイメント小説を除く、純文学の方が印象が強いように思われます。
だが、テクスト論の性質に該当する文学作品を挙げるとすれば、村上春樹さんが記されました『街とその不確かな壁』があります。
『街とその不確かな壁』という作品は、もととなる作品、1980年に文學界に発表されました『街と、その不確かな壁』を大幅に書き直した作品であります。
村上さんの作品の特徴としては、なんといってもストーリー性にみる様々なメタファーです。
本作に描かれる壁や影の存在、そして夢読みなど、物語を読み進めるに従って、現実と夢想の世界を錯綜していく感覚に読者は陶酔し、こうした読書体験が出来るのも村上さんが描く物語でしか体験出来ない魅力があるのも特徴の一つだと考えさせられるものがありました。
比喩的な信号として描かれる物質と非物質についての解釈を読み解くことは難解であるが『街とその不確かな壁』に用いられる実体についての概念はまさに抽象的であることは明確であります。
夢について、夢は散漫であり、一貫性を持たずに、不鮮明でありながら、曖昧でさえもある。
だが、本作では夢は事象と同レベルであるという位置付けがありつつ、忘却されることのない存在、貴重な心の水源であると表現されています。
夢読みによって、ぼくは図書館の書庫で古い夢を読む。
ほんとうの彼女とは、何かということをあらゆる角度から考えさせられるものがあり、こうした趣向を凝らした読み方が出来るのも村上文学の魅力でもあり、テクスト論の考え方に沿って読むことで、村上さんが作品で描いたメタファーの意味に近付くことが出来るのではないかと思います。
先行的な情報なしで、あるいは新鮮な気持ちでテクストを読み、純粋に楽しむことが物語を味わう上で大切なことだと感じます。
ですが、こうしたテクスト論の考え方は、テクストを読む上での思考の補助線としての役割を担ってくれるものだと考えられます。
テクスト論から村上文学の持つメタファーを追求していく過程で批評理論を深化させる働きがあると私自身は感じさせられました。
■2.普遍性にみる異質について
完成された作品、そうした作品には作者の思索によって生まれた存在であり、私たちはそうしたものを‘‘物語’’と呼んでいます。
物語を読み進めるに従い、物語を肯定的に否定的に捉えるかは読者の自由であり、書評家や批評家は提示された作品に向き合って著者の思いを汲み取る必要性があります。
ヴァレリーが記した『ヴァレリー文学論』を読み、特に印象的な一文があったのでぜひ、引用したいと思います。
こうした作品に対する創作活動によって、新しい発見が生まれてくるものがあり、フィクションによる効用は作品やその作品を記した作者までも巻き込む特別な力というものがあります。
創作された文学や小説には時として、その書き手の思想や感情、判断までも越える力があるものだと思われ、作品が作者自らを変えさせ、作品の持つ形式や形態が書き手に影響を与えるというのは文学ならではの特別な力が働いていることが理解出来ます。
ですが、そうした文学作品の中でも、形式や形態を持たない異質な作品が存在します。
青木淳悟さんが記されました『私のいない高校』という青春小説であります。
物語を簡潔に言えば、カナダから来たブラジル系の留学生のある高校生活の日常を描いており、『私のいない高校』を描くにあたり『アンネの日記 海外留学生受け入れ日誌』という本を参考にしつつ改変、創作した物語であり、普通の小説とは違う性質があることが理解出来ます。
何が普通の小説と違うのかというと、物語が進むに従い、生徒やホストファミリー、担任教師などの視点が移り変わり、描かれた視点の先にいる人たちの印象が薄く描かれており、物語を握る主要人物がいなく、タイトルにもある通り‘‘私’’の存在がいないことが理解出来ます。
登場人物たちに焦点を当てることなく、学校の時間割や校則、修学旅行での注意事項などが淡々と記されており、そうした表現によって人物たちの印象は自ずと薄れていき、私を含めた読者の方々に心情を読み取らせないようとしている作者の意図に見事にはまってしまったと痛感させられるものがありました。
こうした『私のいない高校』における作品のモチーフ、作品構造はもととなった『アンネの日記 海外留学生受け入れ日誌』という本を参照し、比較的に読み比べるということをしなければ理解することは不可能であると思いました。
ヴァレリーの文学論における、この表現、‘‘ある作品に対してなされる模倣は、その作品から模倣し得るものを奪う’’という考え方に通じるものがあると考えさせられるものがあります。
模倣性を帯びた作品を読み解く場合、模倣した作品を読み、そこから感じたものについて理解しなければ到底、真意まで結びつかないものがあると思います。
ですが、『私のいない高校』における作品理解に努める上で『アンネの日記 海外留学生受け入れ日誌』を読み、形式や形態を分析するといった重厚的な読み方をしなければいけないのかと言えば、決してそうではありません。
『私のいない高校』で描かれた世界観には、私たちの高校生活と共通性があり、同時に共感するところもあります。
時間割表や校則、修学旅行での注意事項を克明に説明して綴られた無機質な文体から私たちが実際経験した高校時代の思い出を想起させる役割があるということを感じさせられました。
人物像の心情にフォーカスさせずに、時の流れに身を任せながら、説明的に描写させる手法は本作でしか表現出来ないものがあることはもちろんのこと、メタ小説としても捉えられるのではないかと思われます。
『ヴァレリー文学論』にもある通り、‘‘芸術家にとって、自己模倣ができるということはきわめて重要だ。これが作品を築き上げる唯一の手段だ、’’という模範例として『私のいない高校』は重要な役割、価値を確立させていることが窺えます。
‘‘私のいない高校’’と‘‘留学生ナタリー’’が現存する座標軸は物語が進展するにつれて、しだいに薄れていくものがあり、そこに存在するはずの私の存在意義や価値すらも、危うい状態へとなっていきます。
文学における表現の可能性を広げる力を秘めた力作だと実感しました。
■3.円環構造としての文体論と文字論
文字と文体の因果関係を考察することで、必要な要素はまさに作家の書き記したテクストをもとに読むことが求められ、作品からテクストへ、テクストから作家へと行き来することによって文体から文字の分析、文字から文体への分析へと応用させることが出来るのではないかと感じました。
ミカエル・リファテールの『文体論序説』には、様々な方法論を提供させるものがあると思いました。文体というものは、文字によって構成されたものであることは前提にあり、文体を組み上げて作品を作り出すことは作家の仕事であって、試行錯誤の末に生まれたものが作品という理解に繋がる。
文字と文体による言語活動は、言語学的で構造学的な要素が内在されるものであり、複雑で特別な概念でもあります。
そうした大まかな概念図を理解するよりも前に、文体の持つ表現性について考える必要があります。
文体の表現性とは、つまり内側に秘められた問題であって、表現性には文体が定義されたその文体の特徴があることを裏付けることが出来ることは明確であります。
そうした特徴とは、何かについて、言語的なメッセージを伝達する為に作られた文体と、文学として形作り読者という存在に文学的メッセージを伝達する為に作られた文体の二つの存在があります。
そうした二つの文体の性質を兼ね備えた作品こそが、円城塔さんが記されました『文字渦』であると私は思います。
『文字渦』には、こうした文体の両者の側面があって、形式的な特徴と作品の持つ価値観によるものが読み手の心情に訴えかけるものがあり、物語の理解へと断絶させるほどの強い意思が込められていて難解な印象を与えるものがあり、思考を難渋させます。
『文字渦』は文体よりも前にある、文字が文字を巡る円環構造的な実験小説であります。
テクストを読み、理解へと繋げる為に私自身は何度も読み返しながら物語の意図を掴もうと試みようと思いましたが、難しくて今なお現状は失敗に終わってしまっています。
ですが、『文字渦』を読む為のヒントになるものを『文体論序説』から学んだことがあり、特に印象的な一文があるので引用したいと思います。
『文字渦』について、こうした解釈によって展開された新たな言語学的分析は『文字渦』に対してもそうであり、一般的な状況的文脈の説明さえも用いることが可能なのではないかと思いました。
字義や書体の持つ、これまでの見識は『文字渦』によって覆されるものがありました。
『文字渦』で描かれる生成された文字と『文体論序説』で文体における表現のあり方などを論じた論考など、文字と文体には強い繋がりがあることが理解することが出来ます。
文字によって、文字が語られる『文字渦』の技術的試みや作品の意図について、中島敦の作品である『文字渦』に影響を受けて創作されたものであるということは理解出来ます。
円城さんの描く『文字渦』には言語学の知識としての幅広さや奥深さはあるものの、ユーモアさが隠れているものがあると感じられました。
統一性を永続させたまま、言語的な表現のことば遊びによって特異性を醸し出していく。
『文体論序説』では主に、文体や文脈分析と、その他の文体論的研究を追求させた考え方であることを意識的に捉えつつ『文字渦』を読むというアプローチを行いました。
文体と文脈には、人と人とがコミュニケーションを取る上での大切さや作品の読み方を手助けしてくれる働きがあるということを再認識させてくれるものがあります。
こうした考え方を通して、文体論を含む更なる言語学の発展やここまで根付いてきた文学史の確立から、テクストの説明を精細に示すことにおいても文体というものがいかに必要なのかということが理解でき、それは文字に関しても同じことだということが言えるのではないかと考えさせられます。
学問的位置付けとして、文体論があるのは文字の存在があるからであって、文字が生まれてから文体が生まれて、文体は作品を紡ぎ出す為のものであるということを『文字渦』によって学ぶべきことがたくさんあり縦横無尽な言葉遊びは居心地が良い読書体験でありました。
■4.文学の危機感と言語消滅の関係性
文学の持つ重要性や影響力、領域は時代と共に拡大していくのと同時に、文学に触れるということから次第に離れていくことによって、未来へと続く文学のあるべき姿が憔悴しつつあるという問題があります。
表現手段による文学の可能性はこれからより素晴らしいものへと革新されていくだろうと思います。
ですが、革新されていくのは文学に限らず、科学技術や政治なども該当するであろうし、総体的に見ると文学というものがその他の分野によって追い越されてしまい、文学から離れてしまうということで、これまでに築き上げられ、受容されてきた表現手段や言語学的な機能が埋もれてしまうということについて、ラインハルト・バウムガルトが記した『文学との離別』を読み考えさせられるものがありました。
埋もれてしまうという危機は可能性としては低いが文学の消滅という大きな問題に直面するのではないかと感じさせられました。
著者のバウムガルトは、文学の危機的状況についてこう述べています。
こうした文学の危機的状況を踏まえた上で、バウムガルト氏は終局的に文学そのものに対して、ピリオドが打たれるものでもないということを説いています。
バウムガルト氏の考え方では、文学とは言葉を持って、形式を構成させる為にも間隔や距離を必要するべきだと主張されています。
こうした間隔、距離とはなんなのかと言えば、ある文学が創作されるまでに至った、動機、意図から作者と読者における対話など、間隔、距離とは抽象的な概念として捉えられ、バウムガルト氏の持つ文学観として表現力や規律性のある範囲内を越えれば、文学の危機的状況、破滅の徴候であると見なされていることが理解出来ます。
何故、そうした文学の危機をバウムガルト氏は唱えるのかと考察すれば、それは文学の持つ表現手段の拡大が要因として考えられます。
世界から言葉が一文字ずつ消失してしまう小説として、筒井康隆先生が記された『残像に口紅を』という実験小説があります。
言語が消失していく中で、普通に日常を過ごしていることは極めて異常な事態に陥っているのに、主人公はもちろん、作品の持つ世界観についても冷静な視線で描かれていることはとても驚かされるものがありました。
『残像に口紅を』は、バウムガルト氏の論考に対して、逸脱させた物語を筒井先生は描き、見事に危機的状況さえも超越させたものを提供したと感じました。
言葉が失われていっても、語彙力があれば、著者は容易く物語における人物たちを操作させることが可能であり、このような手法は筒井先生でしか描くことが出来ない独自の力が作品に活かされていることが理解出来ます。
『文学との離別』から『残像に口紅を』までの道のりを通して、文学はいづれ消滅してしまうのかという問題定義から文学作品に描かれた物語の消失という結果により『文学との離別』による文学の危機的状況は『残像に口紅を』という作品から概念を覆し、文学の表現手段の可能性をより広げたことを証明させたことが理解出来ました。
世界から言葉が消えることは想像するだけでも怖いことであり、「あ」の文字が世界から消えることで、‘‘愛’’や‘‘あなた’’という言葉の概念も消えてしまい、概念が消えることは言葉に込められた情感さえも同時に消滅するということになります。
このような『残像に口紅を』に見られる、表現手段は『文学との離別』で言えば過剰な表現手段として捉えられてしまうのではないかと思われます。
ですが、バウムガルト氏の提唱する、この距離や間隔は『残像に口紅を』という作品には該当する性質があると私は感じさせられました。
一見すれば、世界から言葉が消えるという事実は論理的に考えれば、現実と結びつかないものがあるものの、『残像に口紅を』に限らずその他の著作にも言えることですが、筒井先生の描く世界観にはブラックユーモアが内在しており、読者である私たちは考えもつかなかった発想に驚かされ、クスっと笑かしてくれる距離感があり、それはまさに作者と読者との対話であると思います。
『文学との離別』と『残像に口紅を』では、一見すると対照的な位置付けとして区別される可能性がありますが、文学観と文学の読み方を改めて考え、読み直すことで新しい発見が生まれてくるものだと、両者から考えさせられました。
■5.小説技法と批評理論、小説読解から読み解く『背後の世界』について
批評的な切り口として、文学を読み解く場合、作品における構造を理解した後に、あらゆる表現技法の中から該当する表現法を選定し、作品に沿った読み方をしなければ読み解くことは困難であります。
批評理論の方法論について解説した文献はたくさんありますが、中でも素晴らしい文献は廣野由美子さんが記されました『批評理論入門』とその姉妹編である『小説読解入門』があります。
『批評理論入門』では、メアリー・シェリーが記した『フランケンシュタイン』を題材に、『小説読解入門』では、ジョージ・エリオットが記した『ミドルマーチ』を題材にしており、どちらも作品の特性から垣間見る小説技法から前者では批評理論について展開し、後者では読解にフォーカスさせて作品理解に努めることを目的として記されています。
作品を純粋に読み進める行為に関して言えば外在的であり、物語から感じた面白さや悲しさ、嬉しさなど作品から受ける印象は読み手にとっては様々であり、私たちは物語を読みそこから何かしらのものを得たいという感覚は意識的にあると感じられます。
ですが、批評理論や物語読解へと真の理解へと発展させようとまでは考えることはないし、そうした手段を取る理由としてはテクストを読み込んだ上で論文や評論をまとめる以外しないものだと考えられます。
そうした手段はまさに内在的であり、外在的と内在的を掛け合わせてアプローチしていくことによって一つの作品から窺える解釈の可能性が広がって新しい発見が見えてくるものだと思います。
多様な読み方をすればするほど、理論も同じくらいに拡大していくものだと私は考えています。
そして、外在的かつ内在的アプローチを試みる上で、テクストの持つ構造と作者の存在が密接な関係性が構築された作品があり、トーマス・メレが描いた『背後の世界』が挙げられます。
メレ自身は、双極性障害であり『背後の世界』では自らの生き方を作品として投影させた物語であって、自らの手記やブログに記した文章を作品に描いています。
こうした手法は『批評理論入門』の中では、関テクスト性、メタフィクションに該当するものであり、廣野先生は著書の中で関テクスト性とメタフィクションについてこう説明しています。
前述での『批評理論入門』においての関テクスト性については、作品内で描かれた手記やブログの内容を指し示すものであり、メタフィクションとしてメレが描いた本作はタイトルにもある通り『背後の世界』での背後は著者自らの視線であることは明らかになっていることが分かります。
関テクスト性とメタフィクション、この両者の表現手法を巧みに使い描きながら外側からメレは俯瞰的な立場にいます。
『小説読解入門』では、このメレの立場はある表現手段の一つとして紹介されているので、こちらも引用したいと思います。
こうした『背後の世界』での語り手の介入は、物語での虚構性とメレが描く書き手としての精神活動が組合わさることによって、メレは自らを『背後の世界』で物語ることが可能にしているのは、文学的技巧や批評理論を使い分けて無意識的に描いてみせていることに作家としての力量が大変優れているということに裏付けられるものがあると考えさせられました。
外在的と内在的な表現法によって、作家は作品をより格調高いものへと到達させることが可能であり、私たち=読み手が求められるものというのは、こうした文学においての技巧や理論の理解と多様な読みが求められるのではないかと思われます。
-あとがき-批評理論を書き終えて
文学作品を読み、関連性のある批評理論を読み込むことで、作品が持つその特性を理解出来ることは批評理論の大きな役割であるということを明確にしたいという思いがあり、今回は現代の前衛的な小説を題材にして記しました。
私自身にとって、あえて難しい小説を選んだのは、イメージとしてある思いをどうしても言語化させて思いを伝えたいという動機から書くことを始めました。
テクストを読み、関連する文芸批評を読み、もう一度、テクストへと戻るという連続性の中で、イメージ像はようやく言語化させることが可能になりました。
小説技法や批評理論の知識を持たせて、再構築させた状態で物語を読むことで新しい批評理論の形を本作で表現することが出来たのはとても嬉しいことでありました。
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