見出し画像

『泡沫の謠』



[泡]


■0 創造性の彼方

物事に触れたり、初めて出会った人と話す機会があった時、その当時の思い出や記憶というものがはっきり覚えていないけれど、自分の触れた色や声などは覚えていたりする。
誰かに言われたこと、自分が話したこと、全てが曖昧だけど、曖昧の中に曖昧な記憶が潜在意識に眠っている感覚に近いものがある。
そうした曖昧なものは、私にとっては大切な思い出の一部分でもあり、ふと脳裏を過ることで自分を苦しめることもあるし、自分を救ってくれるきっかけもあったりするからなんだか不思議なこともある。
色や声が複合的に重なりあって、自分の記憶とずれたものを作り出す瞬間というものがあり、私はそうした現象を自分の中で創造力が働いたと勝手に思ったりします。
創造力は、創作する上で非常に役立っているし、創造力が私の中で失われれば、それはすなわち書くことを卒業せざるを得ないことを意味している。
色と声、創造から、私の創作は成り立つものだと感じる。


■1 減らすこと

昔に比べて本を読んだり、映画を見ることが本当に減ったなと実感する。
高校生、大学生の頃は何でも吸収して学びたいという欲が強くて賢くなりたいだとか、教養を身に付けたいという感じでもなかった。
とにかく、見るもの、学ぶものが全てが新鮮味を感じるような日々の連続だったと思います。
社会人になってからは、仕事やプライベートでの人間関係などで、自分の好きなものに没頭する時間というのが減ってしまったと感じます。
週末休みなどを利用して、本も読んだり、映画も見たり、喫茶店やカフェ巡りもしながら休日は楽しんでいることはもちろんですが、昔の自分と今の自分を重ね合わせると、行動力というものがだいぶ落ちてしまったことを実感するようになりました。
ですが、行動力以前に物事に向き合うことが減ったかもしれないと思うこともあります。
読む冊数や見る本数など、減ってしまったことに対して危機感を覚えるということはありません。
むしろ、減らすことで、これまで気付けなかった本質を知ることが出来るかもしれないと思う。


■2 水沫のようなもの

文章を記していると、ふと思うことがある。感情や思念というものは、水沫のようなものだと感じるということです。
淀みなく言葉が溢れている間、水沫のようなこの感覚は書いているのだろうかと、自分を疑うことがあります。
信念の中に、自分の伝えたいものは必ずあって、私は書くことという手段によって、それが達成されているような感覚を覚える。
同時に、水沫は様々な水沫と重なり合って一つの大きな水玉となります。
水玉をつくることは、書くことと通じるものがあるような気がする。
水沫の性質を見て感じ、新しいものを作り出す作業は楽しさもあり、作品を完成させた時の喜びは書くことでしか得られない特別なものと通じるものがあると感じます。
水沫のようなものを私はいつも、手探りしながら追い求めているのかもしれない。
全てを包み込むような水沫を求めて…。


■3 感覚としての自我

ある日、本が全く読めない時というのがあります。
ですが、そういう時は思った以上に文章が書けたりする。
一方、文章が書けない時は、想像以上に読書が捗ることがあります。
どちらかが出来なくても、私に困ることはないと、これまでずっと自分を信じてきました。
だが、読書も書くことも出来ないことというのも時たまあったりします。
体調や環境などの理由もあるかもしれない、ですが自分を客観視しようと思い、考えてみても何も具合が悪いわけでもない、どうしてなのかと考えてみてもその答えは未だによくわからないものがあります。
ただの面倒くささが原因なのか、私が自覚出来ていない私についての問題は私以外、誰にもわからないことは当然であるし、読書や書くことから一旦離れることで、何かしら分かることがあるのかもしれないと感じた。


■4 余白を生きること

読むことも、書くことも捗らないことが度々ある。
何もしたくないというわけではなく、心は何かをして情報を得たいという気持ちがあるのだが、身体がそれを拒絶しているという感覚が勝っているという状態になっているという認識がある。
読み書きを身体が拒絶しているのであれば、耳から情報を取り入れればいい。
だが、耳から取り入れたものも、右から左へと流れていき、何も残らない。
この瞬間、私はあることに気付いた。
心は身体をコントロールする重要な存在であるのと同時に、全ての情報や感覚を無意識的に遮断しているということを理解する。
私にとって、新しい物事を学び得たことを取り入れるという行為はまさに習慣的なものであるのにもかかわらず、心と身体が私の意志とは別に拒絶する形を示すことは自分でも驚きがありました。
そして、私は改めて余白の時間を作ることの大切さに気付き、そのことがあってからは必ずどこかの時間にバッファ時間を設けることをルール化しており、人生にとって大切な時間だということを実感しています。


■5 ある休日の過ごし方

休みの日は必ずといってもいいほどカフェに行く。
カフェに行く時は、だいたいいつものチェーン店でドトールかスタバに行くことが多いし、決まった時間帯で比較的に朝からで開店してからだと、人も混んでいないので集中的に作業が捗る。
いつもは、作業しやすい場所に座り、ブレンドかアイスコーヒーを注文して飲みながらnoteを書いています。
noteを書く前の作業タスクでは、日記やジャーナリングを行っていたり、読書をしていたが、朝方のドトールやスタバでの作業はnoteを書くことが一番適した時間帯でもあるし、脳が活性化している感覚があって文章もスラスラと書けるし、アイデアも浮かびやすいので、アウトプットを重視した朝活へと切り替えることにしました。
では、読書する時間はいつとっているのかと言えば、電車の中や電車が来る待ち時間、後は意外とトイレでの読書が捗ることがあります。
自分にとっての読書に集中出来る時間帯は、大体2時間だということに気付くようになりました。
読書以外にも、執筆の時間帯も同じであり、それ以上の作業時間は集中力が続かないので、そこで作業が途中になろうが、ストップするようにしています。
休日は、お気に入りのカフェチェーン店でnoteを書くことが私の楽しみになっています。


■6 日常坐臥について

日常ついて、私たちはあたりまえのように本を読むことや思いや考えを文章にすることが出来ていることを幸せであるということを日々の中で忘れがちになっていることがあると、ふと感じる。
日常坐臥という言葉は本来、普段の生活という意味であり、坐臥というのは座ったり寝たりという意味でもある。
私にとって、書くスタイルはこの数年何も変わっていなくて、書く時はスマホ一台で文章を書いているし、ちょっとしたスキマ時間に少しずつ文章を綴っていくというのが私の書き方であり、この書き方が自分に合っていると思いながら、この先もこのスタイルを変えることはないだろうと思う。
書くテーマも、読む本も、その時々によって変わることはあるだろうが、書くことも読むことも、日常坐臥の一部になっていると感じる。
誰しも、様々な日常坐臥があり、生き方からその人の内面や人間性を読み解くことができ、自分自身の生き方を見つめ直す上での大きな学びにもなるものだと考えられるのではないだろうか。


■7 語られるべきもの

文章をいざ書こうと思う時、なかなか上手く書けないことがよくあったりする。
いわゆる、スランプというやつである。
だが、私にとってこのような経験は何度もある。
たとえ書くものが思い浮かばず書けなくても、いづれは書けるものだと信じながら書くことは続けてこられたからだ。
そういう時は、本を読んだり、音楽を聴いたりと、別のことに集中することを心掛けるようにしてきた。
感覚を研ぎ澄ませて、作品から言葉を探すという作業は途方もないことだが、言葉をひとつずつ見つけて、良い部分を繋ぎ合わせながら、自分の言葉としてつくるという行為は書くことでしか得られることが出来ない特別で神聖なものだという認識がある。
感情を乗せた言葉は何度も流転していき、書きたいものが書けた時、ようやく愁眉を開く。
語られるべきものを語るということは、私の中でまだまだ難しいことのように感じることがある。
感情を上手く言語化させるまで、私は書くことによってそれを続けられてこられたのは純粋な好きだという気持ちと共に、まだまだこれからも、語るべきものがあり、伝えたいものがあるからだこそだと私は考えています。


■8 私の謠

伝えるべき思いを文章にして記すことは私が文章を書く上で最も、心掛けていることでもあります。
そして、もうひとつ、作品と私における関係性は皆無ということも伝えなければいけません。
感情と思考は漂着して、いづれ言葉は流れ去り、自らを知り、書くことで流浪する。
断片的なこの短い文章は、私の中で抱えたあらゆる感情の一部に過ぎないものであり、それは私でもあるが、私でもないことは事実である。
どうしても、誰かの記したものを読むとき、書き手の内面性と繋げることをしまいがちであり、私もそうしたことを考えてしまうのもまた必然的である。
小説やエッセイというのは、書き手のエッセンスが十分に詰まってるものの一部でもあり、私たちは作品=作者の言いたいことという認識を払拭することは難しくて、どうしても書かれた内容を信じてしまうところがあります。
だが、私がこれまでに書いたものは間違いなく、私が見たもの、聞いたもの、嗅いだもの、触れたものと直接的な関係があることは間違いないだろうと思います。
悲しかったり、悔しかったり、楽しかったり、嬉しかったり、そうした感情の記憶によるものも私の書いた謠であり、それはまた生の証でもあります。
謠は時に私の存在価値を示してくれる大切な存在でありながら、これからも私は自らの謠を謠い続けるだろうと思いながら、この場所に記していく。


■9 記憶の表裏性

過去に触れた作品のことを思い返すことが時々あったりする。
作品というものは、大雑把に言えば本や映画、音楽なども含まれ、その時に触れた印象や感動などは具体的に言語化するのは難しいが、感覚的な記憶がその後の人生に大きな影響を与えてくれるかけがえのないものになったと感じます。
だが、そうした作品の中でも難解なもの、理解するのが難しい作品というものもあります。
それは、小説や詩文に限らず、映画や音楽においても読むことや見ること、聴くことが出来ないものも私の中にはあるということであり、理由として考えられるのは、記号論的な意味に焦点を当てたコードを取得する際の構造的理解、もしくは世界線による色調の感覚が合うか、合わないかということが原因なのではないかと私は思っていたりします。
解像度を高めることは表現力の筆触にも通じることであり、音楽を聞く際に良い名曲に巡り会えた際の感動的な衝動として、奏でられる聲や謠によって紡がれた音楽を聴く度に、音の持つ表現力の奥深さをより感じることがある。
だからこそ、小説や映画と違って音楽にはジャンルを問わず、底知れない魅力があるものだと思う。
記憶の表裏性から、一瞬一瞬の価値観が少しずつ変化していくことで、私は私という存在から別の私へと生まれ変わっていく。


■10 筆意の心へ

書くことを続けていく中で、いつかは老熟した筆意に到達することが私自身の夢へとなり、書くことでしか得られない表現の可能性を伝え続けることは諦念に至るまでの長い道のりだと理解しつつ、やはり書くことの動機に繋がるものというのは心からの楽しさがあるからこそ続けられたのだと思います。
知覚から認知までの一連の流れにより、現に心が揺さぶれる作品に出会えることは稀有なことである。
価値や感動の定義や条件もまた、人によって異なるものがあることは確かであり、そうした定義や条件に当てはまるものも少ないのは事実である。
そして、感銘を受けた作品に巡り合い、見たものも、聞いたものも、記憶と心に一生、留まり続けるものだと私は思う。
そうした感動を忘れてしまわないように、書くことで記録し、残すことを目的として、筆意と心は共存し、生の喜びと価値を知る。
筆意には、人によって様々な形を作り、色彩を帯びていく。


[沫]


■11 空蝉

はかなさを感じることは度々ある。現し人の語源である空蝉という言葉には、読書や書くことに通じるものがあるのではないだろうかと考えるようになったことは、ごく最近のことでもある。
どちらも、一人で行うものであり、私にとってどちらも空蝉のようなはかなさ、虚しさを覚える感覚に自分自身が支配されてしまうのではないかと思いながらも、こうした感覚に危機感を覚えることはない。
むしろ、自分自身を更なる境地へと飛躍させているというような心地良さというものがあるくらいである。
空蝉から解放させた一つの精神性は、新しいものへと生まれ変わらせる力を秘めているものだと感じさせる。
今の私がいる座標は、読む人と書く人を行ったり来たりしているような感覚に近いものがある。
夏の猛暑日に、空蝉を見てからそう思った。



■12 思慕のような、恋慕のような

思慕と恋慕には明らかな境目がある。思慕には思い慕うということ、過去を思い振り返ることという意味として使われるのに対して、恋慕には異性間の意味として使われるものがある。
どちらの言葉にも属するような感覚、この煩わしさを覚える気持ちはどのように表現したらいいのか、自分が自分でいられないような意識の矛盾によって、私は筆を取ることによって言葉に置き換えることにする。
だが、書くことへと行動を移しても、この思慕と恋慕の特性が入り交じった感覚を上手く表現することに難しさを覚えてしまう。
そうした、思慕と恋慕の両方の意味に当てはまるような人と実際に出会うことによって、私はこの瞬間に自己表現という手段が遮断されてしまうことになる。
決定的な論理性によって、言葉で構築された意味の概念が崩壊させられたような体験はこれまでに、体験したことがないものがあった。
そして、私はこの曖昧な感覚に近いものに対して、~のようなという言葉を付け加えることにしてみた。
何れ、~のようなという言葉から離れた言葉は、どのような意味を持った言葉として成立されるのか、今後の課題でもあると思いました。


■13 碧い作品について

青という言葉には、様々な形と特性を持ったものがあると考えることがあった。
そして、青から碧という言葉に変換してもそうだ。
例えば、読む本も見る映画も、音楽でもそうなのだが、出会った時期やその時々によって、いいなと思える分野に興味が湧いたものには、私の好奇心は読むことから、書くことへと繋げられるものがあります。
どんなものでもさえ、一瞬一瞬に触れたものには全ての価値があるものだと思うようになったし、実際に感じさせるカタルシスというものが作品にはあると考えている。
カタルシスから、私にとってそれは‘‘碧’’のイメージとして根付くものがある。
碧には、深い青色、深緑として、美しい色の象徴として捉えられます。
美しいものに出会った瞬間というのは、感動や運命に近いものがあり、碧は精神の支柱を強く刺激させる特別な力を発揮させることがあると思っています。
碧を内包させた作品というのは、実際には少なく、出会えること自体、奇跡的なことであると感じるし、私自身もそのような作品に出会えたことはあまりないし、これまでの人生においても数えるほどしかないことであります。
ー青から碧へ、私の創作はここから始まっていく。


■14 テーマという名の幻想

テーマというものをあらかじめ考えて書くよりも先に、キーボードを打つ方が先に思考から無意識に書くことを優先的に書き始めていることがよくあります。
私は、テーマというものを考えながら書いてはいません。
そもそも、テーマというものに縛られては書きたいものが書けないのではという疑問があります。
文字数にしても規制してしまっては、そこには本来自分が本質的に書きたいと思うものではないという考えが根底にあるからです。
では、テーマというものは何か、それは潜在意識にある寓意的なものに過ぎないという認識があります。
私は過去に、小説を書こうと思ったことがあるが、実際には書いたことがない、それは脳内で書き記された一つの世界を描いたことはあっても、言語化させて形にはしたことがないという意味である。
描かれた世界は、あの時に創造出来たけど、あの頃の私に書くという行為によって物語をつくるというスキルは到底なかったし、書く動機すらも元々なかった。
だが、過去に描いた世界は忘却によって、完全に消え去ってしまった。
物語をつくるということを始め出した頃は、きっとあの頃だったんだろうなと思えます。
感傷的なものも寓意的に変えられるとしたら、見るもの全てが新鮮な気持ちでいられるのになと感じながら私は過去を回想していた。


■15 道標

人生には、数えきれないほどの選択に迫られることが何度もありながら、そして何度も失敗と後悔を繰り返しながらも、それでも前を向いて生きていかなければいけないことがある。
どのような選択肢であったとしても、正解も不正解も存在しないものだと思うようになった。
道標は、人によっては様々だし、失敗や後悔を恐れては何も変わることが出来ないと感じる。
仮に、あの時、別の選択肢を選んでいても、私は私であり続けていられているだろうし、もしかしたら今のように本を読んでいたり、書くこともしていなかったのではないかなと思ったりもします。
誰しも、生まれながらに使命を持ち人生を歩み、あらゆる体験をして経験を積みながら成長していくものだと私は考えています。
どうして、何故、などという意味や目的を視野に入れて生きるのには生きづらさを覚えるものがあると思えます。
感覚的な直感というか、どのような場面に直面したとしても手探りでいいから、自分なりの道標に沿った生き方で毎日を楽しく過ごすことが一番なのではないかと感じている。


■16 内省と深部

内省と深部、この二つの言葉は似ているようで似ていないものがある。
私は自分自身の過去や行動の一つ一つや又、所作などを思い返すことがある。
行動や所作も伴い、そこに付随する感情の変化もまた同様である。
かと言って、振り返ったところで突然何も変わることはないし、人はすぐに生まれ変われるものではないという考えがあるからである。
何故、あの時、苦しかったのか、悲しかったのか、怒りを覚えたのか、理由は記憶していても具体的な動機というものを説明することが難しいように覚える。
それは、内省とはまた別のものである私の中の深部によるものなのではないかと考えている。
感情と行動というものは、常にリンクしており、それらの結び付きを離れさせることは出来ないことだと認識している。
そして、私たちは過去の自分を振り返ったところで私という一人の自我が今、ここに存在している限り、私は私であるという証明にもなる。
哲学的な意味を問うわけではありませんが、人はあらゆる生物の中でも考えることが出来る優れた生き物だということは断言でき、内省から深部へと意識を移行させることで、人類にとっての思考や倫理観による問題意識まで視野を広げられるのではないかと考えられます。


■17 幸福とは何か

幸福というものについて、幸福の定義、幸福とはこうあるべきだとかという考え方、議論についてはあまり深く考えたことがなかった。
私にとって、幸せとは時間のある時に本を読んだり、映画を見たり、カフェに行ったりしてまったりして過ごすことが幸福だなと思えるひとときだったりする。
あとは、美味しいものを食べて、お腹いっぱいになってから好きなだけ眠るというような時間が幸せかなと思えたりするから、他者にとっては普通だなって思われるかもしれないが、普遍的な日常というものこそが大きな幸せだという認識があります。
幸せというのは、大きなまとまりを持った考え方で細分化すれば小さな日常の一つ一つの集合体であるのではないかと思ったりします。
自分だけが不幸だ、生きていても、何一ついいことがないと悲観する人もこの世には存在します。
私自身も、嫌なことがあった日には、幸せだという気持ちは完全に皆無であるし、むしろ地獄だとさえ思うこともある。
だが、幸福について考える時、私たちが思い描く幸せの在り方というものは、そもそも存在しないものなのではないかと考えることがある。
しかし、幸福によってもたらされるものは私たちの生きる糧になることは確かなことだと感じる。


■18 移ろいゆく中で

文体や筆致というものに関して客観的に捉えられているという自負はあっても、自らの筆意というものが無知であったということに気付くことが過去にありました。
環境や人々の変化に伴い、私の中の感情や価値観というものも、記された作品を読めばそれは顕著である。
怒りや悲しみに陥ってしまった時、あるいはアンニュイな雰囲気に精神が包み込まれてしまいそうな時こそ、アイデアが泉のように沸き上がるのは度々あります。
そうした負の感情こそ、自分の姿をより鮮明に写し出す鏡のようなものなのではないかと私は思います。
書き始めから、書き終わるまでの間、私の中の意識はどこか名もしれない異世界へと飛ばされているような感覚で、書く私は本当の私であるが実はそうではないような気がする。
相手の気持ちは分かったつもりであっても結局、一番理解していないのは自分だったりする。
身体や心が疲れてしまっても、私は自分の危機感に気付いてあげられなくて、苦しみながら助けを求めているのに、全然大丈夫だからと、自分を気にかけてあげられずに、これまで生きてきたのかもしれないと後悔することもある。
だが、今の私も、昔の私も、何も変わっていないなと思わせる瞬間というのがあったりする…。


■19 微かな

SNSの在り方や私なりのSNSとの向き合い方というのは自分の中でかなり模索し続けている問題だと考えている。
話し言葉も、書き言葉も全て人から発信されたものは必ず受け手が受容する。
そうした受容された数々の言葉を人々は、自らの判断により解釈し理解していく。
何よりも伝わっていった言葉というのは、声であっても、文字であっても記録される。
座標上から、X(旧:Twitter)やインスタグラム、YouTube、LINE、Facebook、noteにおいてもそうなのだが、媒体によって使い分けて運用しているという意識はあって、それらを発信しているのは一人の存在であり、発言一つ一つに注意を向けて言葉を発信しなければ炎上してしまう恐れがある。
そうしたSNSでの特徴的な機能として拡散させる機能というのは、メリットもありデメリットも備えられており、安易に使用し過ぎることで誰かを知らないところで傷付けてしまう恐れがあり、何時でも加害者になってしまうことは今の時代において、不思議ではないことでもあるし、そうしたSNSによるトラブルに巻き込まれた事件をニュースで見て知ってしまう度に胸が苦しくなってしまう。
微かな言葉から、今の自分にとって必要な言葉を取捨選択して発言することが大切だと感じる。


■20 浸透していく、波紋

■19項目にある、‘‘微かな’’より通じることで、私にとってのSNSを続けている理由や何故、その場所に留まっているのかということについて考える。
自分に合ったSNSとは何かということをまず考える上で、X(旧:Twitter)は世界各国のユーザーが利用しているツールであり、あらゆる機能性を視野に入れてみても非常に魅力的な存在だなという印象がありました。
Twitterを利用していく度に、私がTwitterに費やす時間というのは、趣味の読書よりもはるかに越えてしまう頻度で利用していき、私自身はその魅力の虜になっていたことは改めて気付かされることがありました。
読み終えた本の感想を140文字という規制の中で、どのように表現したら見る人の心に響くのだろうと考えながら、自分の中のボキャブラリーを駆使して感想をまとめる作業というのは自ずと書く楽しさに繋がるものに違いないと思います。
おかげさまで、たくさんのフォロワーさんたちが増えていき、喜びと楽しさを感じると共に怖さ、生き苦しさという感情も芽生え始めるようになりました。
誰かの目に届くこと、そして自分の気持ちを共感してくれる人が現れて、文字でのやりとりを行うことは会話とはまた違った楽しさ、面白さがあるものだと思います。
だが、私の伝えたいこと、語るべきことは拡散性が少なく、かつ規制の概念にとらわれないnoteでの活動を通して、本当の自分というものを表現することが出来るのではないかと考えるようになりました。
TwitterからXへと変わりゆく中で、当初始めた頃に比べれば、利用する頻度は落ちてしまったのではないかと感じます。
SNSの在り方については、決して明確な答えというものはありません。
ですが、どのような形になったとしても、文章を書いていくということをやめるつもりはありませんし、むしろこれからはどんどん自分が書くべきものを書くために書き続けていこうと思っています。
どうして、書くべきか、書くために理由は必要ないとそう感じました。


[謠]


■21 空白の続きから

空白とは、何もないことであり、何もないことは日々の生活には必要不可欠なものだということを意識するように心掛けるようになりました。
夢中になって本を読んだり、SNSをしたりしていると、時間が経つのが早く感じられる。かと言って、何もせずにぼーっと過ごせずにはいられない葛藤が私の中ではあったりします。
ですが、空白の時間を作ることは、自分自身のメンテナンスであると考えるようになりました。
現代人にとっての悪いところは、無理にでも、何かしなければいけないという考えが働くところにあると思われます。
少しでも、スキマ時間を見つけてタスクをこなさなければいけないという謎の使命感。
一時期、私は、そういう風な考えに支配されている自分がいました。
ですが、私はこの‘‘空白のひととき’’によって、自分の心身を管理する上ではとても大切なことであるということを考えながら過ごすことを目標にするようになりました。
忙しい時でも、暇な時であっても、完全オフの時間を作り、その時間は何もせずに、何も考えないということ。
意識や心の中を真っ白の状態にして瞑想する。
瞑想することで俯瞰的に自分を知る手掛かりになり、ジャーナリングとはまた違った感覚が得られることも考えられます。
空白がもたらすものは、自分をより高みへと成長させるものだと思います。
そっと、目を閉じて、自分の存在というものを認識させることで世界の広がりを肌身に感じられる。


■22 時が滲んでいく

文章を書いては消して、書いては消してという作業を繰り返しながら、私は書き進めていく。
この一連の流れには、推敲という作業も組み込まれている。
だから、私が一つの記事を書き終わるまでの時間というのは誰から見ても長いように思えるかもしれない。
400字程度の記事を作成するにあたっても、扱う題材によっては2~3時間も時間を有することもあるので、作業時間と出来上がりの作品についてあれこれと考える場合、かなりタイムパフォーマンスが悪いように思えたりする。
だが、書き始めさえ出来れば、あとは簡単であり、書き終わりまでの道筋を私は辿るだけであり、時が滲んでいくような感覚を覚えながら、全ての感性が誰かの声によって導かれているような不思議な感覚に近いものがあったりする。
これまでに、書いた作品のほとんどがそのような形で作られたものばかりだったりする。
中には、最後まで書き切ったのにもかかわらず、noteに投稿して公開せず消してしまった作品もたくさんあったりする。
消してから後悔することもあったり、なんの関連性のない記事を繋ぎ合わせて一つの作品にしたりとすることもたまにある。
創作活動は、そうした日々の連続でありながら、飽きることは決してなくて、自分は書くことがよっぽど好きなんだろうなという自覚があったりする。
今日も、明日も、私はひたすらに書き続けていく。


■23 散りゆく叙景

視覚として捉えた特に気に入った風景に出会うと、そうした風景描写を留める為にも、私は小説ならイメージをもとに絵を描いたり、映画なら何度も見返して、映像美によって受けた感覚を忘れない為に箇条書きにメモに残すことがある。
だが、叙景はある日消し去られて、イメージ像や映像美は散っていってしまう。
せっかくの叙景を記銘したものが、自分の中に忘れ去られてしまうのは空虚感しかない。
イメージや映像を叙景として語らせることは可能であり、もしくは可視化させることも出来る。
だが、そうしたものは忘却されて、記録しか残らなくなる。
だか、記録をもとに源流を辿れば、散ってしまった叙景は再び蘇る。
蘇った風景、景色の中に写し出された人やその人たちの感情、そうしたものまでもが振り返ることで、もう一度記銘され、そして忘却される。
繰り返されることで、散りゆく叙景の意味を私は知る。
消し去られてしまったものは、決して無駄ではない。
想起から、忘却へ。
手繰りよせながら、私たちは何かを探し求め生きている、そう思いました。


■24 伝達について

物事の手順に沿っても、誤読というものが起こりうることがあります。
誤読とは単純に、読みちがえるということであります。伝え方は、人それぞれではありますが、相手の気持ちを汲み取って100%理解することはまず不可能だと言えます。
誰しも、相手の意図した気持ちをそのまま受け取ることが出来ないと指摘したのには理由があります。
私たちにとっての言葉の価値基準というものは、それぞれ違ったものがあります。
例えば、「この間、◯◯◯にあるカフェでボロネーゼを食べたけど、とても美味しかったよ」
と友人に言われてもボロネーゼを食べて美味しかったということは想像つきますが、具体的なイメージ象、例えばボロネーゼの香りや味というものは食べた本人でしか分からないものがあります。
誤読とまではいきませんが、日常的なコミュニケーションにおいて物事に対して伝わるものはありますが、本質的に伝わるとまではいかない壁というものがあるものだと思います。
伝わり方によって、嬉しい気持ちや悲しい気持ちに感情が左右されるのが繊細な日本人である私たちの特徴であると言えます。
伝え方の手段としてはSNSの普及に伴い、ますます進化していますが、伝わり方による個人個人の意識は今後どのように変化していくのだろうかと感じます。


■25 書く終へ

肉筆で記された文体とパソコンやスマートフォンによって記された文体には一線があるのだろうかと考えることがあります。
noteを書く際は、スマホで書いていますが、アイデアが閃いた時には箇条書きにメモ帳に記して、それをもとに発想を膨らまして、肉筆から機械入力へ移る瞬間に、言葉と文体、文章に何かしらの変化が起きているのではないかと私は思う。
筆触という言葉がある通り、文体や文章には色調やリズム感というものがあり、言葉で彩られた世界を構成する為の原液のようなものがあると常に感じています。
肉筆や機械入力によって言葉の原液を薄めたり、加工させたりするのはクリエイターの表現力に関わることだと思うところがあるが、そうした筆触から言葉の本質を巡る論考はとても面白いものがあるのではないかと最近思ったり、考えたりしています。
私たちの持つ言語表現の可能性はまだまだ、あらゆる可能性を秘めているものだと感じられ、言語というものには底が見えない、奥深さがあることも魅力的なものだと感じられます。

ー宵月夜に「書く終へ」と記し、思いを馳せる。


■26 共感性の筆致論

書き手と読者を結び付ける共感性について考えることがあります。
文章を書くことで、大切にしていることは読者の方々が自分の書いた文章を読んで何か一つでも得られるような学びになるものを作品から感じてもらうことを念頭に置きながら書いています。
そして、私が文章を書く上で一番大切にしていることというのは文章から感じ取って頂くことによる共感性によるものであります。
私の書くものは、主に読書や書き物についてのことをテーマに書いていますが、その他にも日常的な些細なこと、日々の学びなどジャンルは特に決めずに思い浮かんだことは、その日の内に書いてしまうというスタイルを取っています。
書いていると、主題によっては書きにくいものや読者の人たちにとっては読みにくく感じてしまうものも中にはあるのではないかと色々と考え過ぎてしまうことが多々あります。
ですが、そうした思いを抱きながらも、共感を抱いてもらえる文章を書かなければ、読者の人たちからすれば、書き手である私の意図を理解してもらうことは到底出来ないものだと感じます。
共感性を通して、書き手と読者の方々には強い繋がりを結び付けるものは、文章から感じ取ることの出来る、共感であると考えられます。


■27 静謐な日常から

心を休めること、静謐さを保つ為の日常を作り出す為には、何もしないこと、つまりは無色な日常へと染色することが大切だと感じた。
思考や身体は、常に体験や経験を求めており、何かしなければいけないという葛藤に駆られるものだと日頃から実感していた。
用もないけど、出掛けたり、時間が空いてやることがないから、とりあえずスマホを触る。
だが、そうした意思とは関係のない時間を過ごしていると、ある日突然、とても素晴らしいアイデアを思い付く時もある。
ですが、そういったことは滅多にないことだと感じる。
これまでの人生観を振り返り、私の中に空白の時間というものはあまり見当たらないことに気付いた。
心身性は、何かを求めており、自分の中で新しいものへの学びや発見という好奇心・探求心というものは尽きることはない。
だが、逆に求め過ぎるがゆえに、自分の身体を壊しかねないということに気付くようになりました。
静謐な日常、心身性を深く休ませる為には、何もせずに思考や身体の活動を一時的に停止させて少しの間だけでも時間を取り、その間だけでも空白で無色な日常へと染めることは大切なことだと、ふと考えた。


■28 ある書き手の手引き書

読書論や執筆論といったものについて、あれこれと試行錯誤しながらも、考えてきたことをこれまでにまとめ記すことが出来たのは私の中に創作欲というか、語るべきものがまだあるからだと感じられます。
ですが、書き手の私という存在は、書き手になる前の私が書き手として別の私に憑依することで作品を生み出すことが出来るものだと考えています。
書き手になる為には、書き手の私を自分の中から呼び覚ます状態で書いており、本を読む時の私は書き手の私とはまた違っており、深い眠りの状態であり、この時には読書する為の私が憑依されている状態になっていることが理解出来ます。
仕事やプライベートのオンオフがある一方、読書することや執筆することについてもオンオフが私にはあると実感しているところがあります。
書く本質について記してきた全ての記事は書き手としての私はもちろんのこと、読み手としての私についても深く考察したものであって、書き手としての私から離れることで、私と書き手としての存在を明確化させることが可能であることが言えます。
‘‘書き手として’’を含む、言語化させて表現してきたものの多くは書くことの本質へと結び付く手引き書となるのではないかと思っています。


■29 迷霧と融和

果てしなく続いていく旅路は迷霧のようだと思える。
暗喩ではなく、ただ純粋にそう感じるから、そう表現したい気持ちになる。
迷霧のような感覚は、自分の中にはない新しいものを探しにいくような感じであり、目には見えなくても、匂いや触感が五感を刺激するような不思議な感覚をどのように表現すべきか。
不確かな、曖昧な事物をこういうものだと力説するのは非常に難しい。
事物は、事物と融和され、それはやがて一つの事物へとまとまりを持って活動していく。
それは、すなわち因果のようなものであり、私たちはそうした因果を断ち切り、もう一度修復させたり、そして断ち切るという選択をしてきたと私はこの刹那、感じる。
繰り返される、日常と非日常の中で、いつか手にするもの、又は出会いを求めながら生きていくということを痛感する。
痛みや傷は癒えることはなく、そうした苦しみから逃れて解放するために考え続けてきた。
瞳に映し出されたものは、記憶の一部へと埋め込まれ、思い出として認識する。
記憶と思い出の狭間にある、迷霧と融和の連続性に心身は包み込まれていく。
徒花のような言葉の集合体に触れ合い、もう一度、言葉の輪郭を辿っていく。


■30 淡い色彩

文学やエッセイ、映画や音楽、芸術作品を描くことにしろ、淡さというものが大切なのではないかと感じます。
どういうものを創ることを想定するにしても、身構える程の精神でいる必要はないということであり、私にとってnoteを通して文章を記す行為というのは神聖な儀式でもなければ、高尚なことでもないという考えが念頭にあります。
では、何故、文章を書く必要があるのか、書かなければいけない葛藤に駆られるのかと問われれば、面白さ、楽しさの境地へと誘う力が書くことによって働くからだと言えます。
YouTubeやVoicyなどといったnoteとはまた異なる音声メディアも視野には入れていたが、行き着いた先、自分にとっての自己表現出来る居場所や武器になることこそが書くことだったと感じます。
私の書くものは、おおよそ淡さというものがあるのではないかと感じられるし、扱うテーマ性というものも一貫しているような自負があります。
書くもの、書かれたものに関してはそれぞれの色彩を帯びるものがあると思います。
淡くて繊細なもの、外側と内側との距離を埋めるような色彩によって生まれた新しい筆意は奇跡のような出来事だと感じる。
そうした淡い色彩を求めていくことを肝に命じて。


[夢幻]


◆夢と幻の謠

夢の中で邂逅する私の幻は私の想像していたものとは、また違っていたようだった。
私の書くもの、読むものについてを語る時、支柱にあるものから言葉を汲み取り、繋ぎ合わせるかのような動作で言葉を生み出していく。
まさに、精練するような感覚に近いものがある。
私はあらゆる言葉を受容することに努めた。
取り入れたものの中には、私を肯定するものもあれば、否定するものもある。
流れ落ちていくような、あの既視感。
多様性というものに似つかわしいような補語の役割を担うものがある。
私は読むことで、自分以外の他者の価値を知り、書くことで己の価値というものを改めて知った。
書くべきことがあることは、確かであった。
だが、書きたいのに書けない私の存在に苛立ちを覚えた。
水、泡、詩、欲、生、綴、人、性、悲、怒、私、無、希、繋、愛、筆、読、不、感、夢。
と、二十個の単語を書き連ねて、そこから書くものをイメージするのが私の創る方法でもある。
紙に記された文字を追い続けながらも、何も思い浮かぶことはなかった。
仕方がないので、私は別の作品、それも400~800字程度のものを完成させることにした。
短いものは、大体読んだ本の感想だとか、何でもない些細なことをオチもない話としてまとめたものが多かった。
そして、次の日、また次の日と、月日だけが無為に過ぎ去っていった。
私の書いたものは、メモや途中までで書いたものを含めると200近いものがあり、とは言っても月に投稿するものは5~6記事程度であって多くても10記事程度であった。
タイトルだけのもの、あるいはタイトルはなしで記事のイラストだけを決めて保存しているもの、本文に直接箇条書きに脈絡もなく言葉を連ねたものなど様々であり、私のような書き方をしている人など他にはいないだろうなというような変な自信だけは持ち合わせていた。
ここまで、創作を止めずに続けられた自分が不思議だった。
だが、ある時、私は気付いたことがあった。
書きたいものを書くために、私は誰かの教えや考え方についてまとめた本を読むことによって頼りきってしまっているということに関して、それは染色しているだけに過ぎないということであり、新しいアイデアをつくるという意味では間違ってはいないものの、そこには自分の色というものがないということを理解した。
そして、私は自分の色というものは、どのような色をしていたのかということを知り、この目で認識するためにも過去に記したものを全て目に通すことにした。
自分の書いたものを全て読みきるのに一週間近くかかった。
それまで、私は一ヶ月近くnote投稿を休んで自分の色を見つけるために書くことを止めた。
読むことや書くことでもそうだが、自分の精神を直に見つめるような感覚に近いものがあり、思考がより研ぎ澄まされているような体験をしました。
私は己を読むことで、自分の本当の色を知った。
それは、淡い色だった。
そこから、私は考える間もなく、自分の身体から言葉が溢れ出していく瞬間というのに爽快感を覚えた。
私は以前に書き連ねた単語を一つずつ繋げていく。
ぼんやりとして、どのようなものが出来上がっていくのか、この時まだ分からないものがあった。
だが、毎晩眠る度に、夢の中で私の幻は現れて私に映像化させたものを頭の中に流し込み映し出してくれた。
その大海原には、一頭の大きな鯨がいた。
鯨は潮吹きを行い、飛沫を私に浴びせるのだった。
小さな泡から、大きな泡まで、泡の一粒一粒が私の細胞へと入り込み、鯨が私にとって何を象徴する生き物なのかということを悟った。
その場に居合わせた私は私を見つめて、鯨は自らの生の喜びを表したいのか謠を歌い始めた。
鯨の鳴き声といっていいのか、その音色は私を包み込むような優しい音色だった。
目の前にいる私も鯨も世界の一つへと折り重なるような感覚を覚えた。
夢と幻はふと、消え去り私は途中まで文章を記していたことに気付いた。
生まれてから子供の頃の記憶や成人となり就職をして真面目に働き、ここまでに至るまでの記憶が蘇ってきた。
私は私のことを一番理解していなかったことを痛感させられる思いになった。
だが、今の私にはもう迷いというものはなかった。
辿り着いた言葉は、やがてそれは‘‘泡沫’’という言葉だった。
歌い上げるあの鯨の姿と今、私の書いているものが一つに重なり合った。
夢と幻は、私を繋ぐものだった。
繋がれた言葉の輪による、ある一つの物語は私だけの物語だとそう感じさせられた。
泡沫から夢幻へと同じく、言葉も飛翔していくことを私は考えた。
タイトルには『泡沫の謠』と名付けることにした。
執筆は今日はここまでにして、ずっと前から買っていた積ん読をようやく読めることに安堵して、私は一冊の本を手に取り、読書を楽しむことにした。


◆憂いの鯨

夢現で何もかもが憂いのような錯覚を覚えるかのような世界に飲み込まれたかのような感じがある。
憂いは、誰しも起こり得ることであり、飲み込まれたかのようなというよりかは、自らが支配されてしまったかのようなものに近い気がする。
外側と内側を覗き込む、ぼくの姿があらわになる。
どうしてだろうか、ぼくにいたっても、町ゆく人たちの姿もあの頃とは違うものがあった。
ぼくの記憶が確かであれば、この対立点から根本的な間違いがあるのかもしれない。
心の苦しさだけは、どうしても消え失せてくれない。
記憶の中の扉は、全部で七つの扉があり、それぞれ文字が刻まれている。
渚、宝玉、旋律、白鯨、裁、蚕。
一貫性のない言葉が並んでいる。
ぼくは、白鯨の扉の前に立ってノブを回し扉を開けた。
そこには、一頭の白鯨が佇んでいた。
とても、美しい色合いでシルクのような艶があった。
ぼくは、優しく白鯨をさすってあげた。
すると、白鯨の色が突然剥がれ落ちてしまい、もとの鯨の青へと姿を変えてしまった。
ぼくは、悲しい気持ちになった。
鯨にも悪いことをしてしまったと感じた。
鯨は確かに、涙を流していたのをぼくは見た。
ぼくは、ますます悲しい気持ちになってしまった。
悲しさや感情の全てそのものものが、この鯨であることを理解した。
誰かの声が聞こえる、この声は間違いなく聞き覚えのある声で、それは紛れもないぼくだった。
ぼくには、何も出来ないけど、もう一人のぼくならばなんとかしてくれるに違いないと思い、ぼくは鯨と別れてこの世界を後にした。
ぼくは、ぼくと対話した。
ぼくは、身に染みるほど、ぼくの気持ちが分かってしまうことに苦しさを覚えた。
この苦しさの原因は何か、またあの鯨のことが頭から離れなかった。
鯨と会うのは、月に1~2回だと決めてから鯨も、ぼくに対して警戒心をなくして親しみを覚えるようになった。
手を鯨の頭に触れると、鯨の記憶が流れてきて、鯨の方もぼくの記憶が流れてくるようで、言葉は通じないが、鯨はぼくに何かを訴えかけるように鳴いた。
ぼくは、ぼくに、この鯨を会わせてみたくなった。
ぼくは、書くことについて思い悩んでいるようだった。
鯨も、ぼくの気持ちを察したのか声を鳴らした。
共鳴するようなこの不思議な体験は、ぼくにとって心の支えになるものだと実感した。
そして、ぼくはこの鯨とも自ずと別れなければいけない時が来ることを理解した。
ぼくの瞳からは涙がこぼれ落ちていた。



[あとがき]-『泡沫の謠』から泡沫夢幻まで-

何か、エッセイのようなものを書きたいという気持ちから生まれたのが、本作の『泡沫の謠』という作品である。
私が『泡沫の謠』という作品を書くにあたり、最初に取りかかったことは、タイトルの決定と[泡][沫][謠][夢幻]の章立と0~30編までのタイトルの決定でありました。
全体像としてのタイトルを決めてから、下書きを残して、数ヶ月前までずっと放置していました。
頭の片隅には、雑文のようなエッセイ、それも長編に着手したいという考えがあり、どのような感じで書いていけばいいのか、正直悩みました。
プロの作家さんたちが記した雑文やエッセイなどを読んでいると、皆自分の気持ちを赤裸々にそれもラフな感じで描いていることがとてもすごいなと感心させられる一方、私自身も時間のある時に一編ずつでいいから、時系列は無視してタイトルだけを見て想像を膨らまして書いてみることにしました。
空いた時間に、一編だけなら何か書いていけるということを感じながら、少しずつ書き進めるごとにいつしか完成させることが出来たことに大きな感動を覚えています。
タイトルにもある、泡沫、そして泡沫夢幻には私なりの思いがあります。
泡沫というのは、あわ、あぶくという意味であり、泡沫夢幻というのは、人生のはかなさという意味があります。
一編一編に記した文章や文体は読み手の感性へと流れ込み、私の記したものはまさに泡のように、読み手の心の中へといずれ、はかなく消え去っていくような感覚、そうした思いを伝えられたらいいなという思いを抱えながら記していました。
そうしたものをどうして描きたかったのかと言えば、私が過去に読んで感銘を受けました鴨長明の『方丈記』や吉田兼行の『徒然草』などの影響が大きいのではないかと思います。
どちらの作品にも通じるもので、人生のはかなさを描いており、『泡沫の謠』による一編の思いというのは一つの謠へと生まれ変わり、それはやがて泡沫夢幻へと生まれ変わっていく。
[夢幻]による、‘‘夢’’と‘‘幻’’はまた『泡沫の謠』とは異なるものとして意識して書いたものであり、こちら側としてはあまり触れることはなく、読み手の方々の解釈に委ねたいと私は思っています。
長編を記すことは、短編の作品を記すことよりも、かなり時間と労力のかかるものがあり、書き終えてからの疲労感というのはとてつもなく感じることがあると改めて考えさせられる思いがありました。
ですが、自分の中にある全ての感性を文章にしてまとめ記して書き切るというのは爽快感というものがあります。
長編といっても、これを記す前は私自身の思考法によるものや文学や学術書をメインに絡めて書評した書評集、現代の前衛的な作品を描く日本人作家が記した評論集など、書くテーマごとに私なりに資料を読み込んだり、扱うものによっては慎重に言葉を選びながら記してきました。
だが、書くことを始めるまでの間、私自身の作品像というものは常に出来上がってはいない状態であり、書き進める度に途中で言葉を見失ってしまったらどうしようというような危機感、不安感、恐怖感というものを抱きながらも、それでも楽しさの気持ちが勝ってしまう自分がいました。
書きながら、自分の中の筆意を信じながら、作品の完成に至るまで、どこにどのような感じで連れて行ってくれるのだろうというワクワク感があります。
『泡沫の謠』を完成させることが出来たのは、私にとっては大きな成果といってもいい嬉しいことでもあります。
雑文、もしくは詩文というような印象を持たれるかもしれませんが、私の中では本作はエッセイという位置付けで、ここで筆を置くことにします。
最後まで、読んで頂いた読者の皆さんには心から感謝しています。

よろしければ、サポートお願い致します。 頂きましたサポート資金は、クリエイターとしての活動資金として使わさせて頂きます。これからも、宜しくお願い致します。