約3年振りの京都旅行②「ありがとう、商店街と京都音楽博覧会」
2024.10.12 歩行距離19km
今回京都へ来た動機は、くるり主催「京都音楽博覧会」の観覧。
昨年もチケットは夫婦2人分を手に入れ、生後3ヶ月の息子も連れて行こうとしたのだが、まだ無理そうだったので泣く泣く諦めた(初めての子供だったので)。
今年もチケットは2枚買ったのものの、僕がダラダラしている間に京都の宿の空きがどんどん埋まっていたらしく、気付いた時には2人+幼児で泊まれる世帯所得に見合った宿はなくなっていた(しょうもないビジネスホテルが1泊5、6万円)。なので、1人で来させてもらった。ありがたや。
トランプでも誰でも良いからとにかく円安を終わらせてくれ。トヨタが幾ら儲かろうが俺達には恩恵がないんだよ。
さて、京都音楽博覧会。会場は鉄道博物館や水族館もある梅小路公園。場所が良いねえ。京都駅から徒歩圏内。
チケットを購入した時点ではくるり以外の出演者がわかっていなかったのだが、発表されるとそこにはASKAの名前が。全く予想していなくて、小学生の頃からASKAが好きだった僕としては正に棚からぼた餅。かつてプロ野球ドラフト会議で福留孝介を引き当てた佐々木監督並みに喜んだ。
出演順としてもくるりがトリでASKAがその前なので、僕にとっては理想的。盛り上がりまくれる予感しかあるまいて。
そんなウハウハ状態で臨んだ本日。開演は12時で、終演は19時くらい。取れた宿がたまたま梅小路公園のすぐ側だったので、9時台から公園とその近辺を探索しまくった。ASKA&くるりの為に体力を温存しなければならないのに、そして昨日歩いて脚が痛いのに、旅に出るとすこぶる活発になるのを止められない。
特に、梅小路公園辺りは3年前の結婚式旅行の時に一族でワイワイと過ごした思い出の地なので、過去にすがって生きる身としては感傷的になれるからうろつき甲斐がある。
京都音楽博覧会は、一つの出演者が35分程度演奏して、その後30分休憩が入るという流れになっている。僕は9時台からウロウロし始めて、12時の開演後も「ライブ観覧→ウロウロ」という行動をとり続けた。
公園のすぐ側には中央卸売市場があり、場外市場の様な商店街もある。僕は大きな資本による効率的で均質的な商売に辟易しており、昭和の残滓を愛でているので、京都での商店街巡りは至福の時間といえる。
梅小路公園にはスタバがあり、「ライブで立ちっぱなしで日光浴びて汗かいて疲れたから甘いものでも摂取して休みたいな」という需要にバッチリ答えてくれるが、「分かり切っていることによる安心感」に身を委ねたら、好奇心を最大の長所と生き甲斐にする元旅人としては堕落の一途を辿る。だから、僕は商店街方面をうろつきまくった。「この道に行けば喫茶店があるのでは?」という予感を頼りに。
そして予感は当たる。おばあちゃんがやっているサンドイッチとコーヒーの店に辿り着いた。カフェオレが350円だった。煙草も吸える(吸ったことないけど)。インスタ蝿の魔手にもかかっていない。
これがやめられないのだ。己の勘を信じて磨くべし。失敗を恐れてはいけない。足を棒にせよ。安住は敵と思え、老けるぞ。お前にとっての生はスマホの中にはないのだ。
さて、肝心のライブ。
菊池亮太。若いのに「読める下の名前」を持っている上に、ピアノが。ピアノが体なのか、体がピアノなのか。互いに神経が通っている様に聞こえた。かつて僕も愛車と神経が通っていたことを思い出した。良い音楽家を教えてもらったや。
ダニエレ・セーペ&ギャラクティック・シンジケート。この人たちが出て来るまでは僕はステージから離れたところに身を置いていたのだが(人ごみが苦手)、くるりの岸田さんが愛する音楽家だし、「近くに行かなきゃいけない」と予感してステージ前の立ち見エリアに突入した。結果、大正解。おじさん達がステージに出てきた瞬間に色気が凄いと感じた。僕が女だったらイチコロ。色気ムンムンだし、音楽が自由で素敵。ダニエレはナポリ人らしいが、やっぱりPFMとも通ずるものを感じた。流麗な歌心があって、自由。「これが音楽だよな」と強く感じた。全く聴いたことがなかったけれど、体と魂が動いた。生で聴くべき本来の音楽だった。文字で表現できない。屈託なく幸せだと感じられた。ありがたい。
羊文学。最初の一音でゾワゾワッと鳥肌が立った。滅茶苦茶格好良い。堂々たるスリーピースバンド。僕がもし独身だったら、ギターボーカルの女性に惚れ込んだと思う。くるりの二人が「羊の皮を被った狼」と表現していた通りのゴリゴリのロックなのに、曲が終わると細くて小さな声でありがとうと言う。どういう人生を送って来てあの音楽を創り出しているのか、インタビューしたいと思った。何を感じて、どんなことを発散しているのか。彼女の人の部分にとても興味をそそられた。
ASKA。腰痛をこらえながら開演20分前に立ち見エリアを確保した甲斐があったどころかお釣りが来た。ASKAは喉を痛めたらしく調子が悪かったのだが、楽曲の良さと魂で身も心も揺さぶられた。
今日の出演者の中ではASKAは唯一の歌手だったのだが(他の出演者はバンドかピアニスト)、やっぱり歌手は歌を聴かせるんだなと。バンドを聴くと音に注目(耳)させられるけど、ASKAの時は歌に注目した。そんな発見ができて嬉しい。
それに、くるりファンにはASKAファンも多いことを知って嬉しかった。太陽と埃の中での合唱は良かったな。
トリ。くるり。お馴染みのメンバーに加えて、弦楽四重奏とダニエレもいた。ボイパのお兄さんも。僕が何故くるりに惹かれたのかという別記事を書きたい気持ちもあり、迷うのだが、やっぱり今日改めて感じたことは今日の日記に書く。
僕はくるりを聴くと、音楽が本来持っていたであろう自由さを感じるのではなかろうか(知らんがな)。僕は子供の頃、邦楽を聴いていて「何でみんな1番、2番のパターンが決まっているんだろう」とか、「この人は優れたシンガーソングライターなのに、バンドにいる限りギター、ベース、ドラムを使わなければいけない縛りがあるから嫌だな、勿体ないな」といったことを感じていた。おそらく一般的な音楽から不自由を感じていたのだろう。
そして、年をとってからくるりにはまった。今日の演奏も素敵だった。同じ曲でも色んなアレンジがある。それに、本人達がとても楽しんでいるのが伝わって来て、嬉しかった。京都音楽博覧会には初めて来たのだが、今までの音楽体験の中で最高のものだった。何度も涙腺を刺激され、ASKAで少し頬を濡らした。色んな感情と感覚がない交ぜになった。
今日だけで様々な音楽を聴くことができた。表現者たちは美しい。それに格好良くて、潔くて、しかも優しいのではないかな。そんな人と音を浴びて、幸せだったし嬉しかった。ちょっと長く田舎に籠もっていて気持ちも籠もっていたけど、久々に開けた。来年も来たいな。感謝。
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