たとえ私の言葉が誰にも届かなかったとしても
そう思っては、とてつもない不安に襲われてしまうことが、時々ある。
幼い頃から、私は文章を書くのが大好きだった。大好き、というより、気付けば何かこそこそ紙に書いているような子供だったらしい。例えば、架空の人物を勝手に生み出し物語を書いては「まーた物語ばっかり書いてるの!」とよく母から怒られていたのを、思い出す。10歳そこそこにもなって一人娘がフィクションの世界にどっぷり浸かっていたら、親としてはそれは心配になるだろうな、と今では少し反省もする。だからと言って、悪いとは思っていないけれど。
一方で、私は日記を書くのはどうも苦手だった。3日坊主どころか、1日目は気分良く書くものの2日目にはすっかりやる気を失ってしまっていた。日記帳用のノートを購入しては、何冊も無駄にしたことがある。
それは、自分の中で「言葉は誰かに届けるものだ」という考えが何処かにずっとあるからなのではないかな、と思う。
特定の人に向けて書いたものではなかったとしても、またその文章を承認欲求を満たすための手段として使うのではないとしても、言葉を紡ぐ以上、一個人の感情が
少なくとも誰かの目に見えるものに変化する。
言葉は誰かの心を救うかもしれないし、出来ればそうあって欲しいと願っている。
それと同時に、誰かの目に触れる可能性があるということはつまり、誰かにとっての凶器にもなりうる訳であって、だから言葉の「角」をなるべくまるめながら、
つるんとした形に整えて外に出さないといけない。
「言葉は飴にも鞭にもなる」ことを、言葉を扱う者は必ず自覚しておかないといけないと思っているし、受け取る側がどう思うか気を配ることが最低限の礼儀であり
責任でもあると思う。
そんな風に普段考えていたので、やっぱり自分の言葉が自分の世界だけに閉じこもっている状態は、どうしても窮屈で、飛び出したいくらいにむず痒くなってしまった。
特に、言葉を表現したいいものの、それほど他者からの反応が返ってこなかった時、その言葉の存在自体が意味が無いものみたいに感じられて、苦しくなる。
誰かの目に止まるか目に止まらないかなんて、その時の運次第なところもあるのだけど、意味のない言葉達と道連れになって、自分自身までも世界の大きな波にどっぷり飲み込まれてしまったように、思ってしまう。
でも、そこで言葉を紡ぐ手を止めてしまったら、もっと大きな渦の中にぐるぐる吸い込まれていって、どっちが空か地面かも分からなくなって、いよいよ感情の海から抜け出せなくなる。
自分の感情がぐっちゃぐっちゃになってしまうから、こうしてひとつひとつ外に
吐き出していくしかない。
たとえ、この言葉に何も意味がなかったとしても。
たとえ、この言葉が誰の役にも立たなかったとしても。
たとえ、誰の目にさえ触れることがなかったとしても。
なんて虚しいのだろう、と思うけれど、同時に言葉が私の隣にいてくれてよかった
とも思う。ギリギリのところで、この世界の中で私を私たらしめてくれる存在であるから。
2024年は、昨年よりももっと細かな感情の機微を大切にして、言葉として抱きしめていけたらいいなと思います。今年もどうぞ宜しくお願いいたします。
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