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随想好日『南の琳派・日本のゴーギャンと呼ばれた画描き田中一村』

随想好日『南の琳派・日本のゴーギャンと呼ばれた画描き田中一村』

 わたしには紡ぎたくとも紡ぐことが出来ない画家が存在している。その生き様を書物などを通じ学べば学ぶほど距離を置かざるを得なくなる画家がいる。知らぬ方が寧ろ無手勝流宜しく無責任に書きやすいことがあることは知っている。知っているから余計に書けぬのである。

 明治41年に栃木の木彫師の家に生まれた田中一村。本名田中孝である。近代日本画への造詣を傾けた御仁であれば『アダンの海辺』というタイトルは聞いたことがあるのではないだろうか。一村の代表的作品の一枚だ。

ここの筆者が好きな画の一枚「枇榔の森に崑崙花」

 一村の画業が曲がりなりにも軌道に乗り始め、南の琳派、日本のゴーギャンとして広まる切っ掛けとなったのは、1958年、単身奄美大島への移住を契機としてと伝わる。一村50歳のことだ。
 が、遺された資料などを確認しても一村が奄美大島の地を移住先と選んだ理由については詳らかにされていない。別冊太陽・南の林派の軌跡 田中一村を監修した大矢鞆音氏の言葉においても、同様に記されている。
 従って残念だが、触媒として紡ぐ折などは、所々に見られる一村の足跡と生活の匂いを頼みとして推測を加えなければならないのだろう。しかしこれがまた万華鏡のようでもあり、迷宮、いや生い茂った葦田に取られた長靴を引き抜くような按配となる覚悟はいるようだ。

 一村は生涯を通じて独身のまま鬼箱入りをみているのだが、これには一村の実の姉・喜美子の存在が大きくかかわっている。

※琳派とは~本阿弥光悦、俵屋宗達らによって興された表現手法の本流の一つであり、近代絵画においてもその系統は受け継がれて来たとして知られているが、琳派という名は近代になって作られたようだ。画風は煌びやかであり花鳥画にその代表性が覗われるという。

さて、そんなわけで……今のところのわたしは、どうあってもこの田中一村を触媒とした小説を紡ぎあげることが出来ないのである。

田中一村
一部では、日本のゴーギャンと例える向きもあるようだ。わたしごときが軽々に『命を梳って』などという言葉を使うことは憚られるが他に例えようもない。この画家の画から生命力を感じることができたとするのであれば、いやぁ…… 生命力 ? 違うなぁ。『命とその営み』そのものとすることでしか落ち着きを見ることは叶わなかろうか。こんなものは個々人に与えられた感性であるからして、その感度、向き、指向性アンテナによって如何様にでも感じることができるという前提はある。しかし、私にとってはここで原稿として扱ってきた芸術家たちの"営み"は、完璧に一致を見る。
 死生観というテーマ『一点』において。

"世間体"という条理の坂道を前に、登るも地獄、落ちるも地獄~"生きること"に苦悩を滲ませ、描くための営みと覚醒をみる。

 一村と同時代を生きた画家でもある不染鉄が遺した言葉たち。良い人で居たいと願う。淋しいと感じるから淋しいものを描く。字が読めない人たちのために画で書く。画がわからぬ人たちのために言葉で書くと、自らの死生観を絵筆にのせた。

 煌びやかな京焼が隆盛を見せ、パリ万博への出展・出品の動きが契機となり、ヨーロッパでのジャポニズム文化の流布が加速度的に進んでいた裏面では、河井寛次郎という民藝作陶家が用の美を突き詰め、詩人として哲学者として、自他合一、暮しが仕事、仕事が暮し。この世は自分を見に来たところ探しに来たところ~と死生観と人々の日常の暮らしを紡いだ。

わたしから眺め見るのであれば"この三人"の芸術家たちの覚醒は明らかに"死生観"によって支えられているのである。
 逆説的には、死生観によって芸術は覚醒をみることにも繋がるのだろう。小説家にも同じものが流れているのだろう。太宰にしろ川端にしろ三島、吉行、阿川、遠藤、近啓__________純文系作家全般が藝術家たり得る所以は死生観による覚醒だ。

現代日本画家として活躍をしておられる松井冬子氏の2021年の新刊に「芸術は覚醒を要求する」がある。松井冬子氏の画風をご存知の方は膝を打てようか。好き嫌いはあろうが。

余命を悟ったのか。一村はこう記している。

「この二枚の画は、地獄の閻魔様への手土産です」と。なぜ二枚必要なのか。何故、二枚の手土産が必要だと考えたのか。
「この命を梳って描いた二枚の画は100万積まれても売れない。」と。
なぜ二枚、命を梳って描く必要があったのか。なぜ閻魔様への貢ぎ物として"二枚分"命を梳る必要があったのだろう。

「白花と赤翡翠」この画は一村が姉の死去に触れた2年後に描かれた画である。
前を向いているのだろうか。鳥は後ろには飛べぬ生き物である。
だから留まっているのではないか。白花は姉を顕し
アカショウビンは一村を顕していると云われている。

ここが私の中で咀嚼を終え、溶かしきることが出来ないうち、わたしは田中一村とその作品を紡ぎあげることはできない。もしも理解半ばで書いたとしたなら、そんなものは他人様のヘソ下話に興じる下品なデバガメ程度のものにしかなるまい。それだけは避けなければならないのである。

ただ……わたしは移ろう"今"を見て想う。書ける人間は多くはあるまいなぁと。年々書ける人間は減ってゆくのであろうなぁと。

学術書として、ある種の伝記として書くことは可能だろう。が小説という人間を紡ぎあげる世界において、田中一村は難題であり難問なのだ。
人間の命と業深さに触れなればならないのだから。
 
分かりたくないものを無理やりわかる必要はない。ただ、どうしても分からなければならぬことと定めたのであれば、精一杯その努力をすれば良いのだ。どの道どこかで堕ちて来る。堕ちて来なけりゃ来世に持ち越し案件なのだろう。それも業である。

普通に勉強する分においては別冊太陽・田中一村・南の琳派の軌跡を学べば事足りるだろう。
厚さ5センチ、800ページに及ぶ「評伝 田中一村」この専門書を読んでも書けないのだ。
別に歴史時代ものを書くつもりは無い。あくまで触媒として紡ぐことを考えていても書けない。

結局は、一村が描き上げた作品から教えてもらわなければならないのだろう。命という梳った時間と営みの濃密さは作品の中でしか存在し得ないのかもしれない。


世一



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