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仮面を外す


はじめに

イングランドに来てから2ヶ月が経った。ここまでとても充実した日々を送ってきたこともあり、時の流れの速さに驚かされている。




2ヶ月が経過して日常に、海外で生活を送ることに、毎日に慣れてきた。それは良い面もあれば、悪い面もある。



生活に慣れるまでは、毎日が必死、1日を終えることに必死になっていて、目の前のことに全てを注ぎ、変に後先のことを考えず、考える余裕もなく、
「今」に集中して生きていた。


この今に必死になっていた生活、決してネガティブな感情などなく、刺激的で楽しかった。以前の自分(日本にいた時の自分)と比較しても、明らかに毎日の充実度が違っていた。


そんな毎日を送っていても、生活には慣れていく。生活が落ち着いていったというのが正しいのかもしれない。


正直なところ、ちょっと物足りない。ルーティン化した日々を送っている感覚、すなわちなんとなく過ごしているような気がして、嫌気が差した。
決して欲張っているわけではない。



だからこそ、改めて私のこの渡英の目的、そこに至るまでの経緯覚悟思いを明確にして、更に自分を奮い立たせる必要があると思った。
今回はそこについて赤裸々に綴っていく。





このnoteを通して、自分の想いを整理することは勿論、誰かの決断や行動の手助けになれたら嬉しい。
誰かの、何かの、モチベーションや、一歩を踏み出す勇気になること、影響を与えることができたら嬉しい。
それがまた私の言葉、行動に責任感を増すこととなり、活力となる。



大学サッカー部の退部


私は体育会サッカー部に所属していた。
昨年の夏に大怪我をしてしまい、初めての手術、リハビリを経験することとなった。
それはそれは苦しくて辛くて長かったが、沢山の人に支えられながら乗り越え、8ヶ月後に復帰することができた。
心身共に成長するために必要な時間だったんだと思う。何よりも心が成長した。
新たな価値観、感性を大事にしようと思い始めたのもこの怪我のおかげ。
また、本当の意味での感謝、当たり前なんて1つもないということを再確認できたのも事実。結果論だけどこの大怪我は、私にとってポジティブなものに捉えられる。


復帰して早々のサッカーは本当に楽しかった。待ち望んでいたサッカー、あれだけやりたくてもやれなくて歯痒い思いを抱いていたサッカーをやれている。こんなにも嬉しいことはない。
「楽しそうだな」プレーしている私を見て、こう言ってくれる仲間もいた。




しかし、復帰してから2.3週間が経った頃から、
なんか心につっかかるものがあった。
「なんか……」っていう毎日。



なんか「違和感」あるな。




この違和感を言語化するのは難しいが、
「私にとってのサッカーってこんなものだっけ。」

というのが近い。




いつしかずっとモヤモヤしながら、心が落ち着かない中、何かに引っかかりながらプレーしていた。自分のめりのサッカーではなく、正直こなしていた、やらされていた部分もあった。サッカーのあるべき姿を忘れて、1番大切なことさえ、私自身からなくなっていた
半年以上も大好きなサッカーができなくて、苦しくて辛い試練を乗り越えて、やっとの思いでできるようになったサッカーなのに。こんなものだったっけ。




そんな時、追い討ちをかけるかのようにプツンと糸が切れる出来事があった。
違和感が確信に変わった。
ああ、もう無理だ。と吹っ切れて、怪我を装い自らプレーするのを辞めた。


この出来事を詳しくここに綴ることはできないが、忘れはしないだろう、生涯。
逆に、今ではこの瞬間が全ての始まりになったから、感謝している。



精神状態に比例するように怪我は再発して、また離脱。再びチームから離れて、必然的に考える時間が増えた。
チームから離れることができて少し気が楽になった一方で、鬱憤は晴れないまま。
この期間、人生で1番悩んだし多くのことを考えた。睡眠を犠牲にしてまで自問自答する日々だった。




「私にとってのサッカーってなんだろう。」




これからどうなりたくて、これからどうしたいのか。何のために今ここでサッカーをやっているのか。
今まで全てを捧げてきたサッカー、自分にとってこんなものなのか。
周りの支えやサポートありきで、そして何より大好きで愛しているからここまでやってきたことなのに。



周りに対しての申し訳なさ、強制的にサッカーから離された期間の日記と今の心情との対比から、情けなくなった。多くのことを身に染みて感じたはずなのに、怪我を通して変われたはずなのに、結局何も変われていない。




そこから派生して、この大学でサッカーをする意味は何なのか考えた。



結果、なにも答えが出なかった。



サッカーって自分のためだけにやるものじゃないよな。
そんなこと分かっている。
だが、チームのためにという思い、なくなっているようだった。なくなっていたし、正直そう思うことができなかった。




あくまでも私の感覚だが、1年生の時から、違和感は感じていたのだった。復帰して興奮状態にいたから楽しめていただけだったのだ。
この違和感についても書くことができない。
そんな違和感をも無視して、とりあえずついていった。まさに、敷かれたレールに沿って歩いているだけだった。


「本当にこのままでいいの?」




答えはNO。どう考えてもこのままでは良くない。というのは分かっている、最初から気づいている。
そう思いながらも、どこか自分を偽って、正当化して3年間プレーしてきた。



このまま、何となくで終わるか?



このまま自分の違和感に嘘をつきながらプレーし続けて引退を迎えても、多少の満足感は出るだろう。
本来の大きな目標や目的があったはずなのに、いつしかそれが「引退すること」に変わり、
「やりきった」ことだけに焦点を当てて、悔いや今まで感じて、思ってきたことをばっさりと消してしまって、達成感に満ち溢れる自分が見えた。それは嫌だった。
綺麗事を並べた引退の想いなんて恥ずかしくて書けない。



そう思えているのならもう、変わるしかない。
ああ、もう「今」だ。
「今」しかないな。



こう決断してからは保守的な性格で、行動する前に一旦立ち止まって考えてしまうタイプの私が、何も臆することなく、自らどんどん動いた。尊敬している人に連絡をして相談して。
覚悟が決まっているから何も怖くないし、楽しみとかワクワクの気持ちが強かった。



私はサッカーと生きたい
サッカーの目的を履き違えてはいけない。
ぶれてはいけない。


サッカー部に対しての未練はないからここで区切りをつけよう。目に見える結果は残せなかったが、いつ終わってもいいような毎日、練習に対する姿勢、プレーだったから。0か100かの人間だから、中途半端ができなくて、うまくサボれなかったんだけれども。
勿論、素晴らしい仲間と離れなければいけないことは惜しかった。誰にも相談をせずに、辞めて、事後報告になってしまったが、私の決断を尊重してくれた。



大きな決断

まずはプレーヤーとして成長したい、そのためにサッカーを学びたかった。私が思うサッカーを学べる環境というのが海外、イングランドフットボールだった。
今まで経験したことのないチーム(場所)で、国で、文化の中でプレーすることで新たな価値観が芽生えてくるはず。
日本人がいないチームに所属することで、自分が外国人プレーヤーとしてのフットボールを味わってみたい。今まで感じたことのない感情や思いが芽生えてくるはず。厳しい環境下に身を置き、もまれれることで様々な面で成長して、それをこれからのフットボール人生に活かしたい。選手としての幅を大きく広げ、自分の知らない世界を見ることになるはず。
全てにおいて新たな側面からのフットボール。
今の自分に足りないものを補える要素だと思った。



更にプレーヤーとしてだけでなく、違った視点からイングランドフットボール、フットボール文化に触れてみたい。なぜイングランドフットボールが世界のトップに君臨しているのか、これを追究したかった。(これをゼミの論文のテーマにした)
それが、フットボール選手としてどうあるべきか、選手としての価値を上げることのヒントにもなり得ると思った。


プレーして、観て、感じて、経験して、学ぶ。


サッカーをもっと学びたい
サッカーの奥深さを知りたい
フットボールが文化のイングランドで


「多くの視点からフットボールを学ぶ」


これが明確な目的である。



決断を後押ししてくれた1つに、ワールドカップを異国の地で、フットボールが文化の国で経験したいという思いもあった。4年に1度のタイミングが運良く重なり、今しかないと思わせてくれた。
また、付加価値として英語を学ぶことも。これからの時代、英語は必要不可欠な存在になっていくだろうし、英語スキルがあれば選手としても人生においても多くの場面で幅が広がると思った。



これが渡英の目的、決断に至るまでの経緯である。
サッカー部を辞めることが目的ではなく、サッカー部を辞めることは、あくまでも決断したことを実行するための手段。ここを間違えて捉えてほしくない。
ただ、手段としても大きすぎる決断をしたことに変わりはない。
「サッカー部を辞めた」
ここだけを切り取られたら、あまり印象は良くないかもしれない。実際、多少なりとも私の周りに、味方に心配をかけてしまった。
だからこそ、覚悟や責任も強く芽生えた。
なぜか、そんな悪い印象も変える自信があった。
根拠のない自信が強くあった。



「人生においては根拠のない自信の方が大事で、根拠のある自信よりもうまくいく。根拠のある自信はその根拠がなくなってしまったら終わりだから。」
尊敬している先輩が言ってくれたこの言葉は、行動する上で背中を強く押してくれた。



この決断、サッカー選手としての自分だけでなく、1人の人間として成長する、一皮剥けるものにしよう。
今まで、自分の感覚を頼りに積極的に動いたり、何かの違和感に対して行動を起こしたり、間違っていることに対してNOと主張した経験なんてない。
自ら大きな変化を起こして、行動して、決断したのもこれが初めてだ。




感性違和感から思い立った行動決断
なんか成功できる気がした。なんとかなる気がした。
この根拠のない自信を頼りに、本当の意味で自分を信じてみたかった。



決断と行動を通して


自分に正直になれ。自分を偽りすぎるな。


「仮面を外そう」


「仮面を被り家を出て、帰宅したら仮面を外す。」これが心に引っかかりがあった時の私。
だから毎日息詰まるし、モヤモヤするし辛かった。


今までサッカーが感情を全面的に出せて、ありのままの自分を表現できる場所だったのに、それが段々とサッカーでも仮面を被りながらプレーすることになっていて、いつしかサッカーの目的が変わっていた。





自分の違和感は絶対に間違っていないから大切に、尊重すべきなのだ。そして、その違和感に対して目を背けたり、変に強がっても意味ない。無視すればするほど、後から大きなものがのしかかってくる。
「向き合おう。真正面から。無理するな。」
多少無理することが必要な時もある。だが無理しすぎは良くない。
無理しすぎるくらいだったら、やめるとか逃げるができる人間の方が強いしかっこいい。やめるや逃げるは、立派な変化を促す行動だから。


自分自身の本当の感情から逃げて、偽るな。強がりはダサい。強がっていても、やがて壊れる時が来る。ずっと抱えていたら、やがて爆発する時が来る。私はその状態であった。


違和感に気づけたのなら、気づけているのなら、行動に移そう。変化を促さないと結局何の意味もない。変わらない。
違和感は、新しい環境とか場所への導きや、変化を促されているサイン。
少しずつでいいから自分を繕うのはやめよう。
そして行動しよう。


少し話が逸れるが、人はみんな何かしらの仮面を被っていると感じる。全ての仮面を外す必要はないが、常に自分を繕っていると壊れるときが来るんだ。
だからこそ仮面を外していられる存在は大切にしよう。人に限らず、本やどこかの場所だっていい。それが、いわゆる息抜きということになるだろう。
そして、相手の仮面を優しく外してあげられる存在になろう。これが本当の「心に寄り添う」ことだと思う。


おわりに

行動した私が、決断を彷徨っていた自分に、躊躇していた自分に、行動する前の自分に言えること。
その行動、別に大したことじゃない。
私にとってサッカー部を辞めるという大きなハードルを超えるのが正直怖かった。失敗したらどうしようとか、本当にこの決断正しいのか、不安になることもあった。

それでも揺るがない決意があって、目的が明確になっていたから行動に移せた。

でもどうだろう、行動したから何かが良くなる、悪くなるわけではない。私は実際サッカー部を辞めて、何かが変わったわけではなかった。
行動するのに恐れていたこと、いざ達成すると意外と恐れる必要のないものに変わっていて、その先にあること、これからどうするかの方が大事になっている。その先にあるものを乗り越えたら、またそれを振り返った時、大したことないものに変わっている。これの繰り返し。でも行動するごとに実際は大きく成長している。
だから大丈夫。自分の考えを整理して決断が明確になっているのならば、道は拓く。


事を終えて、決断や行動を邪魔していたものは何だったのか考えてみると、自分の過去将来(先すぎる)のこと、自分本位じゃないものから湧き出てくることだった。これらって余計なプライドを捨てれば、本当に気にするべきことではないもので、違和感や変化を強いられている際に重要なのは現実、「今」だけ。今だけに焦点を当てるべきなのだ。
だから、一歩踏み出す勇気さえあれば大丈夫。
もっと楽観視して良い。


違和感から思い立ち行動するのなら、明確な目的や決意も芽生える。そこには揺るぎない自信、根拠のない自信が存在する。だからきっとうまくいく、道は拓けるのだ。


こんな強い想いを抱いて、今ここにいることを忘れてはいけない。
今を大切に、今を生きよう。




中村天風さんの言葉を思い返す。
「清く、尊く、強く、正しい積極的な心があれば
運命を拓ける。」


何よりも自分の心、信念が大切なのだ。



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