東京路地紀行 1 港区三田小山町
どこを見ても超高層ビルばかりの東京。その中にも点在する一軒家と路地。そこには今の東京ではほとんど失われてしまっている昭和の頃の風景が残されています。そんな路地を探して東京の街を巡っています。
でも東京の路地は時間とのたたかいでもあります。家々は古くなりいい味を出している一方で老朽化も進み、防火防災対策の名のもと再開発の手が迫ってきています。
さて、路地紀行の最初は再開発が決まり、解体を待つ状態になっている港区三田1丁目、旧小山町を歩きました。
古川右岸に広がる三田1丁目(旧三田小山町)は江戸時代は黒田甲斐守らの大名屋敷だったものが明治中期以降に庶民の町として開発、現代の再開発とは少しイメージが異なるながらも、東京の人口増に対応したということでは一度目の再開発となりました。
江戸は約260年間実質的な日本の首都として機能、それにより人口が増えていく過程においてその人口の胃袋を満たすためにも水運を発達させていきました。もちろん、そこには臨海低地という地形での都市化のための河川の付け替え、干拓埋め立てによる水路網の整備が基盤にはありました。
明治時代になると、近代工業化にあたってはそれらの水運の遺産を引き継ぎ、川に沿って工業地帯の創設、拡大が始まりました。古川右岸も川に沿っていて水運がよかったことから小資本家が工場を建設して町工場と住宅地、商業地が混ざり合った地区と発展していきました。つまり日本の近代化に足並みをそろえるように臨川工業地帯のひとつとして発達していきました。これは少し上流にある白金も同様でこちらにはまだちらほらと町工場が残っていますね。これが2回目の再開発です。
さらに時を経てその三田というネームバリューから再開発が進み、かつて川沿いに広がっていた昭和の街並みもいまはほとんど失われてリバーフロントの高層マンションに生まれ変わっています。(リバーフロントも死語かもしれない(笑))
江戸が東京と名を改めてから3回目の再開発(1回目:明治初期町人地に、2回目:明治中期工場地帯に)によって、ここ三田1丁目(旧三田小山町)も隣接する東京さぬき倶楽部(旧讃岐会館)とともについに再開発で消える運命になりました。
この風景が見られるのもあとわずかとなってしまいました。
参考文献
「東京の空間人類学」 陣内秀信著 筑摩書房
「麻布十番街角物語」 辻堂真理著 言視舎
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