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不登校だった娘がロシアでバレリーナになった話#8(見た目が9割の世界で)

ロシア国立バレエ学校での留学生活も、いよいよ4年目。
そして卒業学年のお話をします。

コロナの影響でようやく12月に復学し、その2週間後には学校公演でソリストを踊るという、目まぐるしい4年目のスタートとなりました。

そして、卒業学年の最大の関門は、「就活」です。


卒業後はどうする?

年が明けると、校長との面談がありました。

留学生は、そもそも卒業したらどうするの?ということから聞かれました。

1.ロシアで就職したい

なぜなら、留学を一つの経験として終わらせて日本でバレエ教師を目指す子もいるからです。

長女は当然「ロシアのバレエ団での就職」を希望していることを伝えていますが、ここでまた立ちはだかる「差別」の問題

卒業の国家試験の成績がロシア人と並んでトップ3だった長女でも、ロシア人の子と同じように希望する付属劇場には就職できませんでした。

その劇場は、そもそも「日本人(外国人)は採用しない」と公言しており、劇場関係者に日本人嫌いの方がいたそうです。

(でた、日本人嫌い…😥)

それに加え、外国人を採用するのに多額の税金がかかるという問題もありました。

また、書類関係の煩雑さで、そもそも外国人を採用している実績がない劇場では外国人採用のハードルが高いというのも難点でした。

2.オーディション先を決める

まぁ、この学校を選んだ時点では付属の劇場には就職できないなんて知る由もなかったわけです。

というか、留学する前から就職先の心配までしている余裕はないですし、まず、目の前のことを一歩一歩クリアしていった先に就職があるわけですものね…!

さて、校長との面談を終えると、クラシックの先生も長女にオーディション先紹介する、という流れになりました。

オーディション先紹介するということではないので、要注意です!
※助詞の使い方に注目です💦

ロシアのバレエ学校ではどこでも、「就職は自分の力で勝ち取れ」みたいな風潮なので、劇場は紹介するけど後は自分で頑張ってね!なんですよね。

他の国でもそうなのかはちょっとわかりませんが、場所によっては先生からの紹介もある、と聞いたことがあったので、てっきりそういうパターンも期待していたんですよね~。

3.メール送信して現地へ

オーディションを受けに行く場合ですが、応募メールを何か所かまとめて一斉送信で送らなければなりません。

その中から、返事を頂けたところとクラシックの先生から紹介されたところに実際オーディションに行くことなったのですが、3月と4月、そして卒業後の6月に行きました。

しかし、広いロシアでオーディションを受けに行くとなると大変です。

日程の調整や交通費の都合で、オーディションに行かないことにした劇場もありました。
(後から思えば、全て受けに行けばよかった!)

帰国前の時点で長女が受けたオーディションは全部で3か所でしたが、結果的にはその時点で決めることができないまま帰国となりました💦

ひとつずつ振り返っていきますね。

現地オーディション

では実際に、現地に行って受けたオーディションの話をしていきたいと思います。

当時の長女からの報告だったり写真を見返しながら、記憶をたどっていきたいと思います。

1.A劇場

就活の第一弾は、まだ気持ちの余裕のある3月に、クラシックの先生からの紹介で行くことになりました。

男女合わせて6人の大所帯ですから修学旅行のようなノリだったみたいですね。

クラスメイトと仲良く出発

でもこの移動がなかなか大変で、バレエ学校のある街から列車での移動(飛行機だと高額になるため節約💦)にしたため、なんと片道30時間かかりました!

30時間の列車の旅

オーディションの前夜に到着して仮眠をとり、翌朝が本番という過酷なスケジュールでした。

ここで、宿泊先を決めるのも留学生にとっては受難で、一般的なホテルには泊まることができませんでした。

留学生のビザには、いろいろな制限があるようでした。

そこで、雑魚寝タイプの簡易宿に6人で宿泊したそうです。
ロシアにいたらロシアのルールの従わないといけませんが、それも大変な経験でしたよね。

ただ、男子が一緒だったので逆に心強かったようでした。

オーディションはみんな一緒に受けたようです
今は無きファーストフード店

2.S劇場

次に、こちらの劇場は応募メールでの返事があり、招待されていきました。

学校の先輩がすでに何人か働いていたのと、クラスメートも採用が決まっていたのとで、ご縁を感じる場所でした。

ちなみに、この時は4月になっており卒業試験の真っただ中という状況での強行でした。

というか、この時期にまだ身の振り方が決まっていないのが日本人留学生だけだったんですよね…💦

コロナによる人員の変動が読めない状況で、ロシア国内の劇場はロシア人以外を採用しない傾向にありました。

それでも、長女たちは果敢にオーディションを受けに行ったのです。

寝台列車はこんな感じ

場所は、前回より少し近いといっても列車で片道6時間かかりました。
帰ってきてからも、ホッとする暇がなく試験が続いていましたし、この時は本当に精神的にきつかったと思います。

さらに、クラスの子にも先生にも
あなたたちのような優秀な学生を採用しないなんておかしい!
と言われ、逆にショックを大きく感じていましたね。

3.C劇場

卒業までに就職先が決まらなかった長女は最後の悪あがきで、卒業後にもう一つオーディションを受けに行くことにしていました。

実はこの劇場が酷くて…ディレクター本人が、こともあろうかオーディションの日を忘れていたんです。

確かに、最後にアポを取ってから少し日にちが経っていました。

念のため、出発前に確認のメールを送ったにもかかわらず未読だったので、長女としては嫌な予感はしていたそうです。

でも、この劇場は飛行機で行かなければならない場所だったので、すでに航空券は取ってあったので覚悟を決めて行きました。

当日の早朝に着いて空港内で待機していたところ、ディレクターからようやく返事がきて、日程を忘れていたことを謝られたそうです。

そして、
「明日、受けに来れる?」
と言われました。

長女としては受けたかったのですが、宿泊先の予約はしていなかったし(本来なら日帰りで大丈夫だったわけだし)出発する際、寮母さんからは日帰りを念押しされていたというのでもう無理かな、と思っていました。

でもこの後、あるエージェントの協力によって無事にその日の宿をとることができ、寮母さんにも許可を得ることができたのです。

空港で夜を明かすことなくホテルの部屋で

このエージェントの話は、また別に詳しくお話していきますね。

いづれにせよ、こんないい加減な劇場では働かない方がいい、とエージェントにアドバイスを受けました。

そのエージェントはロシア人で、劇場のこともディレクターのこともよく知っていたので、アドバイスに従いました。

そして後日、やはりいい加減な劇場だったことがわかりました😠

一応受けたオーディションでしたが、採用予定を頂ました。
でも、書類のやり取りに時間がかかって
「連絡するから待っててね」
と言われたまま2ヶ月間放置されました。

結局、その放置中に別のところに就職が決まったこともあり、このC劇場とはご縁なく終わりました。

就職難の留学生にとって、就職しない方がいい劇場なんていうのもおかしな話なんですけど…💦

日本人留学生の就活事情

この時期は、ロシア国内の他のバレエ学校の卒業生も同じように就活に苦しんでいたと思います。

1.差別と向き合う

差別があるなんていうことは、今は当たり前のこととして受け入れられますが、当時は理不尽に感じていました。

というか、ロシアでバレリーナになるハードルの高さの中でも、重要なのは結局この2つです。

  • スタイルなどの見た目(特に、反張膝と甲)

  • 出身学校(ワガノワかボリショイ)

ここには、成績はあまり関係ないと思います。

いや、成績はもちろん良いに越したことはありませんが、結局見た目が9割とディレクターが気にいるかどうか…それ次第というのはまぎれもない事実です(笑)

ちなみに、長女の場合はこの重要条件の2つとも当てはまっていません💦

2.運次第

これもよく言われることですが、運もかなり影響します。

長女の場合、重要条件2つに当てはまらず就活が失敗していたにも関わらず、最後の最後で大逆転できたのは「運」としか言いようがないです。

たまたま」とか、「運よく」とか、そういうあいまいな表現にしかならないものですが、本当に効果は絶大なんです(力説!)

3.強い信念があれば

最後に、プライドがあれば捨てた方が楽ですね。

長女の場合も、とにかくどこでもいいからロシアで働ければ良かったと言っていました。

日本に帰国してもバレエを続けていく居場所がなかったですし、教師になる気もありませんでした。

自分が舞台で踊り続けたかったんですよね。

ロシアでの就活が難しいということで、ヨーロッパにオーディションを受けに行った子もいましたが、長女の場合は
「ロシアバレエが好き」
「ロシアでバレリーナとして踊りたい」
その一途な思いしかなかったんだと思います。

そして最悪の場合、インターンでの採用でも受け入れようと思っていたそうです。

※インターンだと、固定給は出ませんが、舞台に立った場合のみ出演料が支払われます。普段は、団員と一緒にレッスンを受けることができますが、生活費などはすべて自腹負担ですし、劇場によっては研修費として劇場に納めなければならないところもあります。

そんな条件でも飲んで、とにかくロシアに残りたいという信念だけはありました。

やるならとことん、不登校を貫き通しただけあって意思は強かった長女ですからね(笑)

最終的に「運」をつかんだのは、その信念が引き寄せたのかもしれません。







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