優しさの勘違い
例えば、わたしが持っている優しさが100だとして。
10人に10ずつ使うのか、2人に50ずつ使うのか、1人に100つぎ込むのか。
そんなことを考えたことがあります。
わたしが今まで感じていた疲労感の中に、優しさの使い過ぎもあったと思うのです。
自分が持っている優しさの許容量が100なのに、10人に100ずつ使っていたというバランスです。
ということは100が10人だから1000。明らかにキャパオーバーなわけです。
これは自分が優しい人間だと言っているわけではなく、できないことをしようとしているから、結局できない。当たり前。
わたしは「優しい人間でありたい」という出来もしない理想を追いかけ続けて、その結果、別に優しさを求めていない人にも、勝手にわたしの理想を押し付けてきたんだなって思いました。
とてもおこがましい。情けない優しさを勝手に振りまいて、自分は優しい人間なんですってわたしの中だけの自己完結。自分勝手。
優しさってなんだろう。
本当の優しさってなんだろう。
悩んでいる人がいたら、ついつい口を出したくなってしまう。それは優しさではなく、ただ自己肯定感を高めようとしているだけ。オブラートよりも薄く、すぐボロボロになるちっとも役に立たないもの。
そう気がついた時に、生きているのが恥ずかしいと思った。
わたしは人のことを考えることができる、立派な人間なんです。分かりました?
わたしは悲しい人がいたらすぐに手を差し伸べられる、尊敬される人間なんです。分かりますよね?
だから私が居ないと、困るでしょ?
それを優しさと勘違いしてきた。こうやってたくさんの人たちを困らせてきたんだなって。
うちの目の前に大きな一軒家があるのですが、その家のおばあちゃんが毎朝9時頃に、家の外をホウキで掃いているのです。ザッザッて音が毎朝聞こえます。
たまたま、うちでタバコを吸っているときに窓から見えたのですが、そのおばあちゃんは家の周りだけでなく、他の人の家の前も、言ってしまえばその通りほぼ全部を掃いていたのです。
もしかしたら、庭に大きな木が生えているので、葉っぱが飛んでしまうのかもしれないけれど、それでもそのおばあちゃんを見ていて、わたしは優しさを感じました。
日常で起こる些細なこと、そこに小さくても優しさはあるんだなって。
スーパーで買い物かごが誰かにぶつかってしまったとき、きちんと謝ることができるのか。
ベビーカーが来たときに、道を譲ることができるのか。
車が通るときに、邪魔にならないように端っこに避けることができるのか。
そして、逆にそれをされたときに、わたしは「ありがとうございます」って言えるのか。
わたしが今できる優しさはこれくらいしかなくて、世間一般では当たり前とされていることなのだけど、こうやって積み上げていくしかないのです。
そしたらいつか、本当に優しい人間になれると信じている。少なくとも今は。