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人それぞれの枠組み、線引きのなかで生きる|「1Q84」村上春樹

時々雑誌で特集を組まれたりする、当代きっての小説家、村上春樹さん。
海外小説やエッセイ、人文科学系や社会学のほうが好きなので、あまり現代日本作家は読んでいません。村上春樹作品も、だから、ほとんど読んでいない。
自分でもわかりすぎている問題や悩みを、小説みたいに心に残る方法でえぐられるのを、無意識で避けているんだと思います。

主人公は青豆と天吾。舞台は1984年、もしくは1Q84年を行き来して、物語が繰り広げられる。
タイトルの通り、ジョージ・オーウェルの「1984年」を土台にして書かれているとは思いますが、ちょっと私にはつながりが見えてこない。
でも、登場人物の小松という編集者の一言、

俺はね、こと小説に関して言えば、自分に読み切れないものを何より評価するんだ。俺に読み切れるようなものには、とんと興味が持てない。当たり前だよな。きわめて単純なことだ。

「1Q84」村上春樹

に激しく同意するので、それはそれでよし。
いつか読み直したら、全体をもっと俯瞰して、つながりが読み取れるかもしれない。

この物語には宗教団体が登場、反射のように、1995年地下鉄サリン事件や宗教団体による閉鎖的空間の異質性、あのよくわからない感じを思い起こした。
一部のエリート幹部による、屈折した野望と妄想の結果、一市民を不安に陥れた、あのおそろしい事件。


この物語では、地下鉄サリン事件のようなおそろしい事件で社会が混乱する、という場面はない。しかし、そのような閉鎖的な空間で生活した人間が、どのような行動や思想をもつかが暗示されている、と読んだ。
宗教団体のような閉鎖的な空間では、一個人の思考回路もかわっていくのだろうか。


自分だったら「閉鎖的」ということすら自覚できないんじゃないか?
生まれた時からその中に組み込まれた場合、それを「閉鎖的」「ふつうではない」と思う機会は、どれくらいあるのか?
たとえ「ふつうではない」と思えたとして、そこを逃げ出すことのできる子どもが、どれくらいいるのか?


人が自由になるというのはいったいどういうことなのだろう、と彼女はよく自問した。たとえひとつの檻からうまく抜け出すことができたとしても、そこもまた別の、もっと大きな檻の中でしかないということなのだろうか?

「1Q84」村上春樹


今現在、私が「ふつう」「自由」と、しあわせを享受していると思っているこの生活を、私の子どもは「不自由」と感じている可能性だってある。
親になり子どもを養育する中で、「子どもにとってこの世界はどう見えているんだろう」、と少し不安になることがほんとうに増えた。


「勉強したほうがいいよ」というのだって、私が考える特定の枠組みに従って生きたほうがラクだよ、という狭いものの見方だし、かといって、「好きにしなさい」では、無責任すぎる。「子供を信じて、任せておけばいいんだよ」と言われても、信じきれず手や口を出してしまう。


どこかで線を引いて、導いてあげたいとは思うものの、その線は迷っていたり、一貫性がなかったり。
気づいたら子どもがもう中学生になって、私よりずっと本質的な考えに裏打ちされた意見をすることもあって、ぐうの音も出ない。
もう、自分で枠を作り始めているの?私が13歳のときはどうだったっけ?


自分やまわりがつくっていく枠組みや線引きだけでなく、「時間」軸の存在にも気づいたりして、ほんとうに、生きるって、複雑極まりないですね…。


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