Vol2. 初めてわたしに対面した父は・・・ 藤沢あゆみをつくった100の物語
こんにちは、藤沢あゆみです。
藤沢あゆみをつくった100の物語、たくさん読んでくださいましてありがとうございます。
Vol2. 初めてわたしに対面した父は・・・
生後20日、わたしの左の顔の赤みは広がり、色濃くなって来ていた。
しかしその時はまだ、病名などは分からず、母は言いようのない不安の中にいた。
その10日後、ついにその日は来た。
父が姉を連れて、母とわたしを迎えに来たのだ。
電話で母から少しわたしのことを聞いていた父は、思い詰める性格の母にそのことについて追求することはなかった。
父は、結構苦労人だ。
父のお父さん、つまりおじいちゃんが結核で亡くなり、父のお母さん、おばあちゃんはなんと、父と父の兄である叔父を置いて家出してしまった。
この時代に、なかなかハードボイルドなおばあちゃんはその後、新しい旦那さんと再婚して町内に住んでいる。
子どもだけになってしまった父と叔父は、親戚のうちに預けられて育った。
駄菓子屋さんをしている親戚は、当時としては結構豊かなうちで、甘いものが好きだった父にとって、お菓子は食べ放題、なかなかよい環境だったようだ。
算数が得意で、いいそろばんを買いたいから、お小遣いを少しずつ溜めておいて、そろばんを買うためにもらったお金にちょい足しして一番いいそろばんを買ったそうだ。
しかし、大学に行きたかった父は、実の親じゃないというところで遠慮して、高卒で就職した。
母の父、おじいちゃんは、地元ではちょっと知られた発明家だった。時計の部品を発明し、精密機械を作る会社を創業、父はその会社のサラリーマンであったのだが、まぁいえば、社長令嬢である母と結婚することになったのだ。
母は、不思議な華のある女性だった。
自作のフレアスカートに、ウエストをきりりと締め、パンプスを履いた母のモノクロ写真は、レトロなモデルのようだ。
堂々として見える見た目と、繊細な内面がアンバランスなのが母のキャラクターだった。
父には、自分の環境を受け入れ、物事のいい面に目を向ける性質がある。
その性格が、母の両親から娘の婿にと白羽の矢が立つことになったり、のちに経営者になることにもつながるのかもしれない。
初めて対面した我が娘の顔を見て、父もきっと思うことはいろいろあっただろう。だけど、一切ネガティブなことを言わず
「色の白い綺麗な顔をしとってやな」といった。
川西から父の車で、実家である京都府綾部市に戻り、父と母、姉とわたしの4人暮らしが始まった。
父は、地元の会社に勤めるサラリーマンのかたわら、田んぼをつくっていて、わたしが生まれて1ヶ月となる5月から夏にかけては、毎日出勤する前に田んぼの水の量や、稲の生育をチェックするという忙しい毎日を過ごしていた。
その間、姉とわたしを育てながら、母は自問自答を続けた。
父も姉も、母のことを責めたりはしない。
だが、その命を生み出した母親というのは、誰にも責められなくても自責の念にかられるものだ。
「いったい何が悪かったんだろう、一度妊娠してからこけたことがあったから、そのとき赤ちゃんの血管に傷がついたんかな・・・かなんな・・・」
かなん、とは方言で困ったということだ。
かなんな・・・
かなんな・・・
だが実は、こんなことはまだ序の口、本当にかなんことが起こるのはこれからだった。
(つづく)
おとなになったわたしの等身大の物語
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