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「没後70年 吉田博展」、「没後30年記念 笠松紫浪―最後の新版画」

「没後70年 吉田博展」、「没後30年記念 笠松紫浪―最後の新版画」
東京都美術館、太田記念美術館




「新版画」というジャンルについて今まで全く知らなかったのですが、今年は充実した展示がたくさんあるので知るための絶好のチャンスと思い、行って参りました。ちなみに前回行った小村雪岱も新版画の部類に入るっぽい。


「新版画」とは江戸時代の「浮世絵」とは異なり、大正から昭和に生まれた新しい木版画のジャンルの一つです。西洋画の豊な色彩のグラデーションや奥行きと、海外での日本ブーム(ジャポニスム)で世界を震撼させた日本の浮世絵のよさが組み合わさったハイブリッドさが特徴です。


まず「吉田博展」、この展示は凄すぎた。なにがすごいって、吉田博の情熱と執念と根性がとにかくやばい。あまりにも熱くて、ひえ〜〜〜っ!この境地には到底辿りつけねぇ〜〜〜!てびびり倒しましたが、それほどの熱い想いが間違いなく作品に顕れてて、作品1つ1つが神がかっていました。1つとしてボツ作がなかった。全部完☆璧に美しかった。


彼は40代になり始めてから木版画を制作し始めたのですが(子供のころから神童と言われるくらいのすごい画家)、木版画って死ぬほど時間もかかるし技術も必要なのご存知ですか?

【絵師】が下絵を描いてこういう感じで仕上げてほしい〜と【彫師】さんに投げて、色数ごとに必要な版を何枚も彫り、それを【摺師】さんが何枚もある版を1つもずれないように1枚ずつ摺って色を重ねていくというそれぞれに匠の技が必要な分業制によってようやくできあがるものなのです。

なので、別にわざわざ版画に手をつけなくても、絵具で絵描いてしまったほうが早いんです。もう、絵具で描いたらええやん、博、それで充分描ける才能も技術もあるやん、ていうかそっちの方が圧倒的に楽やん!とめんどくさがりの遠藤は思ってしまうのですが、しかも博は自分で版を彫ったり摺ったりもしていたし、専属の彫師さん摺師さんをつけて教育するなどして徹底的にこだわったんですよ…。おいおいなんかに取り憑かれとんのかと心配になりそうなレベルですが、なんでここまでしたかっていうと、「海外(特にアメリカ)から見た時の日本独自の版画作品の重要性」を彼は理解してたんです。売れるんです、向こうではかなり。

若いころにアメリカに渡り、そこでの浮世絵や版画作品の評価を目の当たりにした博は、みんなが思ってる以上に日本の版画技術はもっともっとすごいんやでってことを海外のみなさんにお伝えしたかったようです。そして「版画」に生命をかけていくことになるのですが、この版画を始めたきっかけがすごくないですか?明治の日本の美術界を背負っているというか、使命感がすごい。国の重要な文化の未来のためにものづくりをするという意識、ただもんじゃねぇ。美しい文化を世界に伝えてくれてさんきゅーな、博(だれ)


さて、そんな熱い想いを携えた博の作品についてですが、全作品しげしげと眺めてしまうほどすごい感性と技術がつめ込まれてて一生美術館から出られへんのとちゃうやろか…と一瞬まじで心配になりましたが、その中でも「奇跡の1926年」というコーナーが群を抜いて良かったです…。もう、うっとり死にするんじゃないかってぐらいうっとりしました。否、一回うっとり死にした気がする。

「劔山の朝」の朝焼けのグラデーションに卒倒、「光る海」の太陽が海面に反射するキラキラの眩しさに吐血、「帆船」シリーズの「朝」〜「夜」の6作品の光の移り変わりの美しさに心肺停止。という具合で、救急搬送待ったなし状態でした。

特に帆船シリーズは、同じ版を使って摺る色を変えて朝から夜を表現している作品なのですが、モネの「積みわら」シリーズや「ルーアン大聖堂」シリーズとの共通点を感じ、改めて「美」とは国境の垣根を越える共通のものなのだなと、なんだか嬉しくなりました。

そして光の変化というか大気の変化、人の息吹さえも豊かに表現されてて、版画で大気の変化、人の息吹が表現できる…?!??版画で大気と息吹の変化が??????!?!!と見れば見るほどよくわからなくなりましたが、印刷物やネット上で見てた色と実物が放つ力があまりにも違いすぎてて、これはもうまじもんに版画じゃないと表現できひんやつや…今目の前にあるのはいろんな意味でのほんまもんや…と受け入れられた時、おもむろに絵の前で正座しそうになりました(やめろ)。GODを感じる版画なんてなかなかないでほんま。あれは船じゃなくて6枚とも釈迦やわ。釈迦やったわ(ひどく混乱)


というわけで、もう東京での展示は終わってしまいましたが、神秘の帆船シリーズはほんまに一生に1回は生で見てほしいやつです(はよ言えよ)。遠藤は見れたので満足です(自分が良ければそれでいいのやめていこな2021)



そんなわけで吉田博まじでブイブイでしたが(語彙力)、次にチーム新版画の1人「笠松紫浪」の作品を観に行きました。

太田記念美術館はやっぱりむちゃくちゃいい作品を持っている。わたしが伺ったのは展示換えをした後期のみだったので、前期作品を見れていないのが悔やまれます。

彼、今年没後30年らしいです。わたしが生まれた時にはまだ生きてはったんやと思うと、なんかこうついつい遠い存在に思いがちな素晴らしい芸術家さんたちがほんまにこの世に存在したはったんやな〜ということを感じることができてうれしくなります。


さて、笠松紫浪の作品は戦前と戦後とで版画の刊行元がかわってしまってだいぶ摺り方が変わってしまうんですが、遠藤は戦前の渡邊庄三郎のとこから出してた時の作品がむちゃくちゃ好きでした。

比べて戦後の版画はTHE日本らしい版画!って感じがわかるアウトラインの濃さとか題材の明確さとか版画でしか表現できひん「らしさ」があって、近くで寄りで見たときはちょっと濃すぎやし花の塊とかディティール雑すぎちゃう??彫師も摺師もサボってない?大丈夫??紫浪ほんまにこれでおっけー出したん???!報連相できてる??!?!!?ってつい仕事モードで疑ってしまうんやけど、少し離れて遠目から見てみると、バシって目立ってすごくいい力を放っていたので、なるほど「部屋に飾って様になる版画作品」となるとこのぐらいがええかもなぁと納得。きっと商業的な観点でこっちの方がウケがよくて売れたんやろなと思いました。


ただ、そんなおそらく売れることを考える前の戦前の紫浪の作品の方が彼の本当に表現したいことが実現できてたんとちゃうかな?と思ったし、そっちの方が単純に長い時間じっくりと見ていられるような深い美しさがありました。アウトラインが繊細で、真っ黒じゃなくてちょっと薄いグレーだったり、奥の描写が全て淡い色の濃淡で表現されていたりするのが印象的で、ただただ美しい。

特に「霞む夕べー不忍池畔」はおそらく日が暮れて外灯に灯りが燈るような時間帯なのでしょうが、穏やかな空の明るさも感じられる絶妙な時間帯を表現していて、溶けてしまいそうな気持ちになりました。信じられないぐらい美しかった。水色めっちゃ綺麗。

「下田の街」も淡い紫の濃淡で表現されてるのですが、メインとなる橋は少し濃い紫で、さながらシルエットのように簡素な形で表現され、そこに目がいくようになってて、そのデザイン性の高さにも唸りました。西洋の空気遠近法は遠景になればなるほど青く背景を描くという技法ですが、遠景は遠景でも霞や霧によって濃淡が変わってくる日本の気候がとても自然に表現されてて、こっちの作品の前でも溶けたので遠藤は消えて無くなりました(は?)


ちなみにこっちの展示も先週末でおわりました。見れなかった方残念でしたね(残念でしたねじゃねえ)



というわけで吉田博も笠松紫浪の版画にもそれぞれに特徴があり、見比べることで時代背景や新版画の意義を理解できたこともあり大変おもしろかったです。

そしてまた、どちらも水たまりや海や川など、水の反射や映り込みの表現が印象的で、「水」の美しさに気づけた機会でもありました。


10月にもう一人、新版画の巨匠「川瀬巴水」展がSOMPO美術館で開催されるので、これも絶対に見に行かなくてはいけないやつ…!!!とても楽しみです!!!!!これはちゃんと会期中に感想を書こうと思うので読んでね2021。





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