音博と、ロックバンドのくるりについて

京都音楽博覧会にいってきました。説明するほどのことでもないのでしょうが、くるり主催のフェスイベントです。晴天の梅小路公園はとても気分が良く、ビールを飲んでいるだけでも幸せだと思うのですが、そこにひたすらに良い演奏があるのですから、実に有意義な休日になりました。

サラリ、とレポートを書こうと思っていたのです。来年もぜひ訪れたいと締めるつもりだったのです。それは、念願のnever young beachの、多幸感そのものと言って差し支えないほどのライブから、日が落ち始めた会場に熱をもたらすASIAN KUNG-FU GENERATIONまで。僕は「なんて素晴らしい一日なんだ。これはぜひ、文章にしておこう」と思っていたのです。心が動いた瞬間というものは素晴らしいものであるにもかかわらず、すぐに忘れてしまうので、せめて自分が思い出せる程度には、かたちにしておきたいと思っていたのです。

しかし心に器があるのだとすれば、きっと縁のぎりぎりにまで満たされてしまっていたのかもしれません。総勢11名のくるりの演奏がはじまってから、僕は言葉を探すことをやめてしまって、ただただ目の前の感動を、精一杯に受け止めなければいけない、と感じました。

オープニングで、くるりのメンバーがnever young beachのことを「自分たちの音楽を感じるバンドが出てきました」と紹介しました。そして「昔のくるりを思わせる」と、言葉を付け足しました。確かにくるりは、ひとつの空気感を貫いているバンドですが、時代や編成によって、その音楽の多様性を膨らませ続けてきたバンドです。くるりと似ているバンドはたくさんいると思う一方で、「くるりと似ているバンドはただのひとつだって存在しない」と言っても差し支えないだろうと思います。

今回は、新アルバムを引っさげての音博ということで、ぜいたくに新曲を披露してくれました。僕はFM802リスナーですので、そのいくつかは耳にしていたし、心待ちにしていました。しかし、実際に演奏された曲は、僕が耳にしていたものとはまったくもって違ったものでした。極端にアレンジをしているわけではないのですが、ステージに立つ11人が、このステージでできる最良の伝え方をすると、ここまで心に響くのかと驚きました。これを「グルーヴ感あふれる」とか、そういう短絡的な言い方をしてしまっていいのかなと不安に思います。さよならリグレットやブレーメンのような代表曲ですら、聞き馴染みのあるかたちでなく、また新しい切り口から聴かされたというか。とにかく素晴らしいステージでした。いつまでもいつまでも見ていたいと思いました。

くるりは音楽の開拓者だ、というひともいるだろうと思います。間違ってはいないと思います。だけど、彼らがやっていることを「開拓」と呼ぶのは、僕にとってはあまりしっくりきません。新しいことをやっているわけではないと思うのです。既存の楽器で、既存の音楽を、くるりがやる。そこに一切の妥協とか、「試みとしての」という枕詞はなく。ただ、くるりがやっている。それだけのこと。

岸田さんはTokyo OPの演奏が終わった後に、くるりのことを「京都のプログレバンド」と言い放ちました。会場はもちろん笑い声に包まれました。

バンドをジャンルに当て嵌めるのは聴き手の側であって、もっというのであれば音楽メディアの方々がひとつのジャンルに当て嵌めてくれて、初めて聴き手は安心して聴いていられるのだと思います。その点、くるりをどう扱えばいいのか、僕にはよくわからなくなってしまいました。

彼らのことをジャンルに当て嵌めるのは難しいと思うかもしれませんが(ここで「くるりのジャンルは、くるりである」と、安っぽい言葉をどや顔で言い放つことはかんたんですが)、あえていうのであれば「ロック」でしょう。ロックとはなんぞや、なんて、答えは十人十色ですが、くるりはそういう、かたちが変わる音楽をやっていますから。くるりのどの曲もロックだと思って、安心して聴いてしまえばいいのではないでしょうか。ジャンルなんて本当はどうでもよくて、良いものが良いのですから。言ってしまえば、ただ単に僕にとってのロックはくるりだと思ったので、それだけの話なのですけれども。

集まった6組のアーティストと、くるりというバンドを通して知る音楽は、本当に心地よいものでした。心を強く優しく揺さぶる時間でした。音楽博覧会の名にふさわしい、素晴らしいフェスだと思います。

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