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「桃を煮るひと」くどうれいん、を読んで

くどうれいんさんに夢中だ。「うたうおばけ」「わたしを空腹にしないほうがいい」と読んできて、なんて素敵な文章を綴る人なんだろうとファンになった。秋田に仮住まいしている私にとって、盛岡出身・在住というのも、なんだか身近で刺さったのかもしれない。先月盛岡に行ったときには、「これがれいんさんの住んでいる街…!」と内心大興奮だった。

れいんさんの綴る言葉は何でこんなに魅力的なんだろう。飾らない等身大の言葉?歌人ならではのテンポ感?そんなことだけでは片づけれない気がする。このまま本ごと飲み込んで私のものに出来たらいいのに、というくらい、れいんさんの文章が好き。

そんなれいんさんの新刊をAmazonで予約して、読んでみた。
待ちきれなくて1時間くらいですぐに読み終えてしまったけど、ああ、もっとゆっくり読みたかったもったいなかったなと、またすぐ余韻にひたるように読み返した。装丁も凝っていて、桃のような手触りがして、宝物のように持っておきたくなる本だ。この本を読む、という目的だけのために、この本を鞄に忍ばせて喫茶店に行く日が近いうちに必要。

特に瓶ウニが食べたくなったし、私にとってのファミチキ、小葱は何なんだろうって振り返りたくなる。
私も、もうヘトヘトで何も選択できない…というときにはドトールのジャーマンドッグを食べるし、高校生の定期考査後に毎回友達と食べていたトマトまぜそばはなんとなくその子としか行きたくないし、なによりも好きなのは家族で遠出した帰りにSAで食べる豚汁定食。私も食いしん坊だから、食通じゃなくても、思い入れのある食べ物がたくさんあるし、食べ物は生活と密着してるからこそ、人が食べ物について語っているのってこんなにもおもしろいんだなと思った。

あと、盛岡で生まれ育ったらそりゃあ美味しいもの好きになると思う。粋な個人店がたくさんあって、野菜もお魚もお酒も美味しいんでしょう。ずるいよ。私の知っている盛岡のひとたちはみんな食べることをとても大切にしていて、旬とかに詳しくて、なんだかとても素敵なお姉さんばかり。

最後にとくに私が好きだった箇所の引用を載せます。

わたしは大根を面取りして、それを米のとぎ汁で茹でこぼしてふろふき大根にし、鶏そぼろ餡を作り、そこに冷凍していたゆずの皮を細切りにして乗せて、仕事で疲れて帰ってきた男にそれを食べさせようと思っている。それをだれかが「丁寧な暮らし」だと嘲笑するかもしれないが、うるさい。わたしは大根を面取りしているだけだ。それ以上でも、以下でもない。わたしはわたしの大根を切る。おまえはおまえの大根を切れ。

くどうれいん「桃を煮るひと」p102

若く、両目の瞳の奥にひとつずつ真っ赤な炎を燃やし続けていたような日々もあったけれど、その日々に戻ることはもうない。いまはおだやかに晴れ日の川面のように青い炎で、毎朝湯を沸かしている。たくさん水を入れた鍋に菜箸を差し込んでかき混ぜるとき、いつも船を漕いでいるような気持ちになる。この厨から、できるだけ遠くの岸へたどり着いてみたい。時折かつての自分が建てたいくつかの灯台を通り過ぎながら。

くどうれいん「桃を煮るひと」あとがき


2年前はじめて親元を離れて、生活の大変さを知って、最近は料理や洗濯に助けられてると思うことがある。何にもできなかった日も忙しすぎた日も、お米を炊いただけで、洗濯物を回せただけで、なんだか救われる。心の安定剤だ。自分のために、自分のペースでやってるだけのぬるい戯言かもしれませんが、私はこれからも生活を愛していきたいなと思うのです。

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