いつから「私、おばさんよ」と名乗ろうか?【岡田育「我は、おばさん」】
わたくしアヤオ31歳、おばさん歴19年。
なぜなら私が12歳のときに姪っ子が生まれたからだ。
(ちなみに姉は10歳以上歳が離れている)
ここでの「おばさん」とは「叔母(伯母)さん」である。
しかし「おばさん」は、そんな単純なものではない……。
今回読んだ本はこちら。
岡田育作「我は、おばさん」
https://www.bungei.shueisha.co.jp/shinkan/warehaobasan/
岡田育さんとは……
1980年東京都生まれ。編集者を経て、2012年より本格的にエッセイの執筆を始める。テレビやラジオのコメンテーターとしても活躍。2015年よりニューヨーク在住。
三十路をすぎて「おばさんになってきたよね〜」的な会話が、同年代の友人との間に多く出てくるようになってきた。
しかし、いつから私たちは「おばさん」となるのだろう。
題名もインパクトが強いが、読んでいくと「おばさん」のとんでもない奥深さがわかる。
「おばさん」とは?
本書の中には筆者の岡田さんなりの「おばさん」定義が何度か出てくる。
たとえば……
おばさんとは、みずからの加齢を引き受けた女性を指す言葉である。おじさん同様、斜めの位置から親とは異なる価値観を提示し、次世代の育成に大きく寄与する。素敵な贈り物を授けてくれたり、粋な背中を見せて励ましてくれたり、時々はお節介に干渉してきたり。その手助けは若者たちの人生を豊かにする。
斜めの位置から親とは異なる価値観を提示し、次世代の育成に大きく寄与することで、若者たちの人生を豊かにする「おばさん」。
「斜めの位置」とは子供にとって親との関係よりは距離があるが、たまに関わりがあるような位置、とのことらしい。
親戚のおばさんなんかは、まさに斜めの位置に当てはまる。
たまに会うからこそ子供は親に話せないことがおばさんに話せるし、反対におばさんは我が子ではないから気楽にアドバイスなどもできるのだろう。
だからおばさんは「次の世代に大きく貢献する存在」のようだ。
おお……おばさんって、なんか壮大。
「おばさん」は、我々よりも少しだけ力が強く、少しだけ前を歩いている年長の女性で、立ち往生する若者を見かけたら、やたら親切に世話を焼いてくれる。知力や財力や行動力、もろもろの不思議なパワーを行使して、その恩恵を下の世代に気前よく分け与えてやる。疾風(はやて)のように現れてハヤテのように去っていき、見返りは求めないが、お菓子のお供え物には無邪気に大喜びする。
恩恵の例として、「飴ちゃん配り」などが挙げられている。
* * *
今までしっかりと存在意義を考えたことはなかったが、小さいときからあらゆる「おばさん」が自分の周りにいたことを思い出す。
いとこのおばさん(母親の妹)
友達のおばさん(友達のお母さん)
近所のおばさん(そのまま)
駄菓子屋とかスーパーのおばさん(地域の人)
自分との続柄が明確かどうかに関わらず、みんなを「おばさん」と呼んできた。
確かに静岡の田舎で生まれ育った私にとって、夏休みだけ東京から来るいとこのおばさんはいつもかっこよかった。
私がずっと東京に憧れていたのは、そのおばさんの影響もあるかもしれない。
ふむふむ。
おばさんが「次の世代に大きく貢献する存在」であることに、納得。
象徴的おばさん
本書の中には、ありとあらゆるおばさんが紹介される。
よくここまで「おばさん」に焦点を当てて調べ上げたな……と思うほど多数のおばさん例が挙げられており、岡田さんに感服した。
紹介されている中で世界的に有名なおばさんはこんな感じだ。
『シンデレラ』の魔法使いのおばさん
『眠れる森の美女』の魔女のおばさん(映画「マレフィセント」にもなった)
若草物語のマーチおばさん
物語の中でおばさんはしばしば、自由奔放な身勝手さ、無責任さの体現者でもある。主張が激しく我慢のきかない大人で、子供相手にでも同じ目線でムキになることがある。アンバランスで不完全な存在、一歩間違えれば年若い少女たちと不協和音を起こしてもおかしくない。優しいかどうかもよくわからない。よく言えば独立独歩、悪く言えば頑固で他人に厳しく、空気が読めない。
おばさんの見立て、すごい……。
物語中での印象を強めるために、個性豊かなキャラクター設定をしていることもあるとは思うが、確かにおばさんは「図々しい」というイメージが強いように思う。
* * *
日本の有名おばさんとしては、
樹木希林
市原悦子
黒柳徹子
楠田枝里子
などが挙げられている。
そして「私がオバさんになっても」で有名な森高千里も。
樹木希林は「斜めの位置」的な配役が多いように感じるし、市原悦子なんて「家政婦は見た」だ。
黒柳徹子と楠田枝里子は「我は、おばさん」を体現している感じがする。
* * *
余談だが楠田枝里子は私の中で「世界まる見え」のイメージが強い。
高くハキハキとした声で「さ、今週のザ・ベストは〜!?」と言う楠田さん。
いつもカラフルなお洋服を召していらっしゃったな。
楠田さんが本書に書かれているような高身長の方とは知らなかった。
高身長?私と同じだ。
楠田さんは1月12日生まれ。
誕生日、私と同じだ。
おばさんって何歳から?
たまに年嵩の女性から「あなたはおばさんなんて名乗っちゃダメよ!私だってまだ名乗ってないんだから!」と叱られることがある。おまえにはまだ早い、その資格はない、若造が先んじて宣言するのは筋違いだ、と。ヨシと号令がかかるまでおとなしく順番を待っていろ、というずいぶん居丈高な年功序列の強要である。「でも、森高千里だってとっくにオバさんになりましたよ?」と口答えしたくなる。
これは笑った。
同じようなことを私は職場のおばさま(敬意を表して)に言われたことがある。
これが同年代同士の会話となると、
「「おばさん」はまだ早いよ〜!」に変わる。
30歳を過ぎた女性なら、過去に一度はこのセリフを聞いたことがあるのではないだろうか。
アイドルやお笑い芸人の話を楽しんでいたガールズたちは、いつしか「体力が落ちてきた」だの、「背中のお肉が取れない……」といった会話をするようになる。
そして訪れる「ミソジ(三十路)の壁」。
「もう三十路になっちゃうよ〜!やばい!」は周りでよく聞いたし、多分私も言っていた。(よく考えたら、なぜやばいのだろう)
しかしみんな口を揃えて言うのは、「30過ぎたらどうでもよくなった」である。
きっと私たち、「三十路の壁」を話すように誰かに操られていたんだ……笑
* * *
ところで三十路について調べてみたら、面白いことを知った。
20歳…二十路(ふたそじ)
30歳…三十路(みそじ)
40歳…四十路(よそじ)
50歳…五十路(いそじ)
60歳…六十路(むそじ)
70歳…七十路(ななそじ)
80歳…八十路(やそじ)
90歳…九十路(ここのそじ)
知らなかった。
いくつになってもまだまだ勉強。
もちろんおばさんになっても。
* * *
さて、おばさんとは一体何歳からなのだろうか?
私は子供がいないため「おばさん」と呼ばれることは今のところほぼない。
姪っ子たちも私を「おばさん」と呼ばない。(姉のしつけ?)
著者の岡田さんは「おばさん」という言葉に対してのネガティブなイメージを払拭する必要があると言っている。
男はいつまでも「永遠の少年」を自称して良いのに、中年女は何かにつけ「もういいトシなんだから」と諌められ、これ幸いと気を緩めていると「オンナとしてたるんどる」と叱咤される。サッポロビールを飲みながら無言で耐える「おじさん」や、牙を抜かれた「かわいいおばあちゃん」が愛でられるのに比べると、その扱いはひどいものだ。
いい歳なんだから若いときのようにはっちゃけるな、でも「おばさん」にはなるな、って実に曖昧だ。
それぞれの人の捉え方は全然違うと思うが、この表現をなんとなく納得できてしまうということは割と一般的な見解なんだと思う。
三十路を迎えたからおばさんでもないし、50歳を過ぎたからおばさんというわけでもない。
私たちが抱いている「おばさんっぽい」イメージに合った外見、言動が見られる女性になると、見事周りからおばさん認定をされるのだろう。
自分がいくら「おばさんです!」と名乗ったとしても、「あんたはまだよ」と年功序列の強要をされる可能性もあることも忘れてはならない。
* * *
女性がおばさんである期間について、岡田さんはこう言っている。
少女と老婆の長い間に横たわる長い中年期
明確に「おばさん」となる年齢はないが、少女から老婆までの間って結構長い……。
いつからどのように「おばさん」を名乗るかは、女たちの主体性にこそ委ねられている。自分がもう若くはないと認めるのは、悪いことでもなければ、怖いことでもない。何歳であることも悲劇ではなく、先を歩く「おばさん」たちの列に加わるのは、けっして不名誉なことではない
善きおばさんになる
善きおばさんとなるために必要な条件として、岡田さんは4つ挙げている。
《次世代を向いて生きている》
《下心がなく、見返りを求めない》
《少女でもなく、老婆でもない》
《社会の中に自分の居場所を見つけている》
少女から老婆の間の年齢で、
社会の一員として生活していて、
損得勘定を入れずに、
頼まれてもいない若者の世話をする女性
が善きおばさんということだ。
「愛でられる少女でなくなったら、愛でられる老女になるしかない」という思想を持つ女性は一定数いるのだが、私はカッコイイおばさんになって口やかましくいたい。愛されるよりも愛するほうを選び、与えられる側ではなく与える側に回るには、私たちは、ちょっと背伸びをしてでも、自認に先んじて成熟した大人を目指さなければならないと思うのだ。
岡田さんの目指す「おばさん」はなんだか軽快だ。
次世代を想うからこそ、あえて口やかましくいるというのは、「おばさん」としての強い意志を感じる。
まさに、「我は、おばさん」だ。
誰でも年齢は重ねていくもの。
私もそのうち一人称が「おばさん」となる日が来るはず。
そのときは正々堂々と「私はおばさんだよ」と言おう。
次世代のために。
ぜひ、読んでみてください。
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