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アテネの街に溢れるパッションと、ドクメンタがみせる現代アート

やっぱりアテネの人たちは3人に1人の割合で、ノーヘルでバイクに乗っている。現代アートの国際展 ドクメンタのメイン会場のひとつベネキ美術館(Benaki Museum)に向かい歩いていると、大型バイクを乗りこなす、格好のいい男たちとすれ違う。ギリシャは自由と責任の国。自分も男だったら、ノーヘルでバイクに乗りたい。

アテネに到着してから、初めて向かうドクメンタの会場がベネキ美術館なのだが、THISEIOというメトロの駅から歩けると思ったら、実はかなりの距離があった。適当に方角を定めて歩いていると、ふいに、アテネの下町に息づく人々の暮らしの熱に出くわした。街角のグラフィティと食材市場である。

昨夜食事に出かけた、宿近くの豚肉の串焼きとフライドポテトが名物の小さな食堂周辺でも、グラフィティをたくさん見かけたのだが、このTHISEIO駅近くのグラフィティはさらにすごい。上手いアーティストが競い合うようにあらゆる壁を彩っている。どうやらここは、ちょっとした有名グラフィティ・スポットらしい。どこかの国の学生さんたちが、先生に連れられてツアーのような形でグラフィティ鑑賞をしていた。

グラフィティ・エリアを抜けると、スパイスの香りが漂ってきた。ハーブやスパイスを量り売りしている店、天井一面からソーセージや乾物を吊り下げている店、古道具屋が連なる。そしてついには、肉と魚のマーケットに行き着いた。

「描きたい」「誰かに見て欲しい」という表現の欲求が、街角を競うように色彩を拡張させていくグラフィティの勢いと、「食べる」ためのマーケットから溢れ出てくる、人々の暮らしに息づく情熱。その空気を感じただけでアテネまではるばる来てよかったと思える何かがある。そして、アテネでドクメンタの会場にたどり着く前に、生きることの根元に近い人々の表現と食の営みに触れたことは、私のドクメンタに対する印象を(よくも悪くも)かなり変えてしまったと思う。

市場を出た後も歩きに歩いて、青リンゴを齧って喉をうるおわせながら、汗をかきかき、やっとの思いで到着したベネキ美術館には、静謐な空間が広がっていた。

このモノクロームの作品群は、死の間際にヒトラーと結婚して共に自死したエヴァ・ブラウンという女性の物語をテーマにしている。グラフィティのカラフルさと比べると、ずいぶんとおとなしい作風という印象もあるが、作品のコンセプトはどこまでも硬質で、強い。

そして、美術館やギャラリーの白壁に作品を展示する、いわゆる「ホワイトキューブ」における展示は、アートを展示する際の、世界の共通フォーマットだ。そこにローカリティは介在しない。

ドクメンタが提示するアートのあり方は、現代アートの世界にヒエラルキーのピラミッドがあるのであれば、上部に位置するものである。一方でグラフィティや生活や暮らしに内在するアートは、底辺に近い(実はここにも賛否両論あって、グラフィティを社会派な表現形態の一つとして美術館でも取り上げて一定の理解の醸成や権威付けを試みたり、バンクシーという超有名で作品も高額で売買されるアーティストを排出している文脈と捉えたり、と、いろいろな動きがある。が、私自身はいますぐ全てのグラフィティを高尚な文脈に置いてしまったら、かえってつまらないのでは? という立場である。権威づけられなくとも、面白がられ続けたらいい)。

とはいえ、「つくりたい」「生きたい」という欲求の源泉は、どこまでもつながっている。あらゆる形態の作品が抱え持つ、アートを生み出す根元にある感覚に丁寧に目を向けていけば、現代アート界が生み出している、奇妙な共通言語やフォーマットに風を入れ、刷新していく何かが見えてくるのかもしれない。

身近なものと、高尚なもの。そして、どちらにも共通して存在するもの。アテネのドクメンタで作品を鑑賞する際に意識するのは、「両極」と「通底するもの」だ。


写真は Instagram @ayatsumugi からもどうぞ。


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