【連載】随想録 第3回「B'zが救ってくれた暗黒時代」 - ほぼ月刊「庄内わぐわぐ随想録」
皆さま、こんにちは。阿部彩人です。高校卒業までは「何も無い」田舎だと思っていた酒田を飛び出して上京した少年が、38歳となる年に自らUターンし「わぐわぐ」が溢れる日々に至るまでのストーリー。今回は暗黒時代となる中学時代後半の話です。
酒田市立・平田中(現在は酒田二中に統合)で陸上部の長距離部門の部活が崩壊した責任をとって部長を辞した後、私はすっかり積極性を失い、内に籠もってほとんど中学校では他の人と会話をしなくなりました。反抗期に差し掛かっていた私は、家の中でも妹2人や両親と全く会話をせず、祖母のみが私と意思疎通をできる状態だったのです。そんな中、私の心の拠り所となったのは、音楽であり、B'zでした。憂鬱な毎日の中で、B'zを聴くことのみが生き甲斐で、そのためだけに生きているような日々を過ごしていました。平田中の同学年で目立つ男子はほぼ100%、BOØWYやX JAPANを聴いており、どちらかというとクラスの中でも控えめな男子がB'zを聴くという構造。私は隠れてこそこそB'zを聴いていたので「隠れビーズ」というありがたいあだ名を頂戴しておったものです。
インターネットという概念がほとんど世の中で知られていなかった当時、アーティストの最新情報を得る手段は「電話」でした。私が中2となる1994年、B'zはシングル『Don't Leave Me』と2枚組アルバム『The 7th Blues』をリリースするとともに長い全国ツアーに出ており、B'zのお二人が自ら「暗黒時代」と称する年で、11月に発売されるシングル『MOTEL』まで長らく新作の情報は全く出ませんでした。そのため、B'zの最新情報が音声で流れる電話番号に連日のように電話をかけ過ぎた結果、実家の固定電話の料金が通常の月の3倍ほど(確か3万円以上)になり、祖母から「彩人、どごさ電話かげっだなだ?」と訝しげに問われた覚えがあります。しかし、家族から怒られることは全くありませんでした。そして、さらなるB'z情報に飢えた私は、なけなしのお小遣いをはたいてB'zのファンクラブ「B'z PARTY」に入会します。2024年現在、会員数はのべ80万人を超えると言われておりますが、私の会員番号は18万番台でした。
私が中学3年となった1995年、シングル『ねがい』をリリースしたB'zは、7月から『B'z LIVE-GYM Pleasure '95 "BUZZ!!"』というライブツアーを開催します。その皮切りとなる初日・2日目の会場が、なんと山形市総合スポーツセンターでした。「B'z PARTY」の最速チケット先行で2日目のチケットを2枚購入できた私は、同じクラスの「隠れビーズ」仲間である、中平田小出身の千葉睦仁(のぶと)君を誘って一緒に行くことにしました。私の父親である酒田市役所職員(当時)の阿部幸秀(こうしゅう)が運転する車に睦仁君と同乗し、約3時間かけて会場まで送ってもらい参加できた、生まれて初めてのライブ。それは、とにかく夢のような圧倒的かつ非日常的な異空間でした。特に、当時まだ未発表曲として演奏された『LOVE PHANTOM』の最後に、稲葉浩志さん扮するドラキュラが地上約30メートルの高さからダイブするという衝撃的な演出には、度肝を抜かれました。
▼『B'z LIVE-GYM Pleasure '95 "BUZZ!!"』からの『LOVE PHANTOM』ライブ映像はこちらの0:40あたりから。
https://www.youtube.com/watch?v=_FWS6P7rT9g
当時15歳にして、日本そして世界を代表するエンターテインメントの最高峰を山形で目にすることができたのは、私にとってこの上ない体験でした。そして会場まで車で送ってくれた父親には、ライブ会場に着いてから終演までの4時間ほどの空虚な時間をどこでどう過ごしていたのかについては全く聞いたことがありませんが、今でも大感謝です。
さて、私に「隠れビーズ」という光栄なあだ名を付けてくださったのは、中学3年間に渡り同じクラスだった、東平田小出身の高橋健一君と土田雄一君でした。一緒に雄一君の家で音楽を聴きながらギターを弾いて遊んだり、時には東平田地区・大森山の展望台まで歩いて行って、庄内平野を一望できる絶景を楽しんだりと、多くの時間を共有しておったものです。彼らはクラスの中でも目立つタイプの人達でしたが、誰とでも分け隔てなく接し、私が内に籠もるようになってからも仲良くしてくれる優しい男どもでした。中3の夏休み、同学年の生徒達は休み明けに開催される運動会の準備で学校に集まっていましたが、私はそこには全く加わることなく、毎日のように漆曽根の家に引きこもって夏休みの宿題の絵を描いていました。そんな私を見兼ねて、健一君は私をカラオケに誘ってくれました。酒田市の上安町にあったカラオケ屋「マリーンエコー」に行って、健一君と一緒に2人でB'zの曲を歌いまくった記憶があります。
夏休みが終わって中学校に、宿題として空想の中の風景を描いた水彩画を持って行ったところ、後ろの席の雄一君からその絵に赤いボールペンで芸術的な落書きをされました。その絵はいつの間にか美術の先生から「第37回こども県展」に応募され、約1万点もの応募作の中から各学年で1点ずつ選ばれる最高賞「県展賞」を受賞することになります。審査員からは「水彩絵の具以外の画材を使っていて斬新である」「中学生の絵として新たな方向を示してくれた作品」という評価を得たとのことでした。ある意味、雄一君との合作が受賞したように思えて、とても嬉しかったものです。
▼阿部彩人の作品拡大(私自身が付けたタイトルは「JAP」)
中3の2学期には、平田中の規則が改正されることになり、それまで両手の中指の第二関節二本分(2~3センチほど)までだった頭髪の長さは、7センチまでOKと変更になりました。それとともに、男子の流行の髪型「角刈り」は徐々に廃れ、雄一君は、どう見ても後ろ髪の長さが7センチ以上あると思われる、平田中では数少ない最先端の髪型「ロン毛」の中学生となったのです。
年明けの1996年1月1日、私と千葉睦仁君が見に行ったB'zのライブツアー映像作品『"BUZZ!!" THE MOVIE』がビデオで発売されました。それを健一君や雄一君に貸したところ、「B'zは凄い」という評価になり、平田中の目立つ男子達の間でもB'zは一大センセーションを巻き起こします。特に雄一君は、そのライブで演奏された名曲『ALONE』で稲葉さんがピアノを弾き語りする姿に感銘を受けた様子で、ピアノなどは未経験の雄一君から「彩人、このピアノどご教えでくんねが」と、エレクトーン経験のあった私は懇願されました(中3の文化祭の合唱コンクールで、私は『大地讃頌』のピアノ伴奏を担当していました)。そして放課後の体育館のピアノで猛特訓が始まり、卒業間際の雄一君は毎日のように練習に没頭した結果、『ALONE』を弾きこなせるまでに急激な上達を果たしたのです。3学期、廊下の壁に穴が開いて外が見えていた極寒の木造校舎に響き渡る、雄一君が弾く『ALONE』の美しさは格別でした。
私自身は内に籠もって暗黒時代だと思っていた日々でしたが、音楽を通じて他の人達と深い交流をすることができるようになっていたのです。音楽とB'zの偉大さを改めて感じずにはいられません。そして、中3の後半になるに連れ勉強は疎かになり、成績はかなり下がりましたが、高校受験ではなんとか酒田東高等学校に合格して進学することに。次回は、激動の高校時代について綴りますので、お楽しみにの~。
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