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『一部を見て全部を見た気になる』偏見

「一部を見て全部を見た気にならないで」子供の頃から、これが一番と言っていいほど、自分がされて嫌なことなんです。

自分のことをよく知りもしない人に一部だけ見られて、その一部が自分の全てだと言われること。例えばできないことがあったら、全てできないと思われること。私の一部分のできないところを見て「全然できない」「できないことが多い」と言ってくること。それほど自尊心を壊してくるものはありません。逆にできることを見つけられもしないと、不信感しか抱きません。

大抵の場合、心のなかで「この人は私の一部を見て全部を見ているな」と全部をみて判断する気はないのかなと思ってしまいます。あまりにもそれが続くと、「そういう人か」といくつもの例を元にして認識してしまいます。人に対してだけではなく、物についても同じことが言えます。

でも最近気がつきました。自分もいつの間にか「一部を見て全部を見た気になる」をやっている時がある。その時は総じて偏見を抱えている。一部の嫌なところを目の当たりにしただけで、対象物を否定しようとする。偏見を持てば自分の見える世界を狭めてしまうことに、気がついていない。

偏見を一度持ってしまえば、自分の中の防護壁のようなものですから、正直言って自分の力だけではその壁を破れません。誰かに引っ張られるか壊されるか、思い切り力を入れて自分で壊すかのどれかです。

偏見をとっぱらえば、「私も一部を見て全部を見た気になっていた」「自分の世界を狭めていた」と感じることもあり、勿体無いことをしたなーと後悔することになります。現実私は自分の世界を狭めることで何かを守ろうとして、他のものには根拠の少ない偏見を持っていることがありました。結構多いです。「一部を見て全部を見た気になっていた」ことに気がついた今、偏見を壊そうとして、徐々に偏見の壁が崩れようとしています。

もし何かを一括りして語りたいなら、良いところも悪いところも全て見てからにしましょう。その道のエキスパートのように知識を得て、いろんな状況を自分の目で見て確かめてから、物を語りましょう。全てを知ることはすぐにできるものではないですから、かなりの時間がかかります。全てを語れるようになるのは寿命が来る頃になるかもしれませんね。それだけ全てを知るのは難しいことです。その頃には偏見もないと思いますが。

どうしても受け入れられないなら、そっとその場から離れましょう。自分も偏見対象も、否定することにはなりませんから。嫌いとか好きとか以前に、自分が見ないようにすれば良いだけです。

私は、何も知らないし深くやったこともないくせに偏見を持つのはやめます。自分の範囲を広げることに歯止めをかけてしまって勿体無いだけです。一部を見ただけで全部を見た気になって語りだすなんて、自分がされて嫌なことは、なるべくしたくありません。


物事に偏見を持つのは、自分の正当性を得て自分を守るためでもあったと思います。自分の軸をしっかり持てるようになった今、自分で作った殻もそろそろ壊します。


あやさわえりこ

※写真は「殻」で検索して使用させていただきました。自分の偏見の殻を破って外に飛び出したいと思います(^^)

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