人付き合いが苦手というか自らその道を選んでいる可能性
こうして自分の過去をさらけ出すことは、何の得にもならないし、自己満足に近いのかもしれない。私の過去になんて興味のある人はいないことも承知している。
だけれども、人とのコミュニケーションが苦手な私にとって、どうしてそうなったのか、ふとその理由を過去に遡って探してみるのも悪くはなさそうだと思い立った2022年の霜月の終わり。インターネットという名の海に向かって言葉を浮かべてみる。
先に申し上げておくと、ここから先は私の過去の回想であり、読者の皆様にとって有益な情報は一つもない。
だけどもしかしたら、この感情を共有できる人がいるかもしれないと、わずかな期待も持ち合わせているので良かったらお読みください。
◇ ◆
◇
自覚があるのは、中学生の時だ。
端的に言って、中学生の頃の私は、友達が一人もいなかった。
いや、上辺の友達はたくさんいた。
あなたたちいつも一緒にいるわね、と担任の先生に言われるようなグループにも属していた。
クラスメイトもたくさんいた。別にいじめられているわけでもなかった。
それでも、その頃の私にとって「トモダチ」という言葉は、どちらかというと「知り合い」に近く、他愛のない話で爆笑したり、好きな人の話できゃぴきゃぴしたり、部活で切磋琢磨したりというとかいう血の通った青春とはかけ離れていた。いつも心は置いてけぼりだったように思う。
理由は簡単だ。私は、転校生だったからだ。
小学校6年生までは関東に住んでいた。
転勤族だったから、幼稚園までは関西に住んでいたし、生まれたのは九州だし…という具合に、数年に一度の大規模な引っ越しは、我が家の恒例行事だった。
関東では7年近く生活しただろうか、再び九州に移り住むことになったわけだが、7年の間、転勤がなかったのは父だけが単身赴任でやり過ごしていたからで、きっと年頃の私たちのことを考えて、父と母なりに気を使ってくれたんだと思う。
九州への転勤は、もしかしたら両親の”九州に帰りたいという”希望故だったのかもしれない。いつかは故郷に帰りたいという気持ちは、地元を離れて暮らす人なら少なからず抱いたことがある感情だと思う。
でも小学生の私にとって、それは何の前触れもなく突然。
中学校からは皆とはお別れして遠いところに行く、ということが知らされた。
みんなと同じ中学校に行けないというのは、しばらく放心状態でご飯を食べられなくなるくらいには辛い現実だった。
小学生の私は、幸いなことに気の合う友達に恵まれ、毎日が楽しかった。周りの子たちはませていて、遊びの一つ一つが大人びていたのは、都会だったからだろうか。入ってくる情報は新しく、友達一人一人の精神も年齢も高かったから、私は末っ子みたいな感じで皆を追いかけていた。
女子特有の仲間外れや、いざこざとかもあったけれど、しょうもないことで笑い、語り合い、最終的には丸く収まるその関係性が好きだった。
涙の卒業式を終えた3月の春休み。まだ桜も咲ききらない頃、九州の田舎へ越してきた。
新居の周りを歩いてみたら、古びた商店街と青々と茂った緑の多さが対照的だったのを覚えている。
公園で小学校らしき子どもたちが遊んでいた。遊びの内容や、服装、表情。それらを総合的に判断して、3年生くらいかな、と思った。
話しかけてみたら、意外にも彼らは同い年だった。独特の方言だったから、聞き取るのに苦労した。
3年生くらいに見えたのに。
「幼い」
関東にいた時は、自分が一番幼くて、皆に追いつきたくて仕方なかったのに。
初めて出会ったその子たちを、私は無意識のうちに見下していた。
私が行くことになった中学校は、近隣の小学校の卒業生がそのまま持ち上がりで通ってくるところだった。
他の小学校とのミックスもなく、変化したことと言えば、私服が制服になったことくらいで、要するに小学校の延長に近いコミュニティだった。
そこに、私は放り込まれた。
もちろん彼らは、下の名前で呼び合う関係性がすでに構築されているし、はじめましてとか、どこの小学校出身?とかいう会話もなく、昨日の話題の続きが今日も繰り広げられていた。
どうやって会話に入っていけばいいのかわからなかった。
加えて、これは後から分かったことだが、その地域は母子寮と言うのが近くにあり、いわゆる母子・父子家庭の人たちが生活費を抑えて生活している所があった。
家の事情で判断してはいけないのもわかっていたけれど、不良は大抵そういう家庭の子だった。
そんなに人数も多くない2クラスで、片親の子がそこそこの数いるというのは田舎あるあるなのかもしれないけれど。
私と仲良くしてくれるようになった2人の女の子も、それぞれ理由は違ったけれど、父親もしくは母親しかいないという家庭の子だった。
彼女たちは、一人しか親がいないことをさほど気にすることもなく、時には自虐的に話すのだった。
決して裕福ではなかったけれど、生活の知恵と笑いのセンスはピカイチで、毎日楽しく過ごしていた。笑いを取るのが上手な2人はいつも漫才みたいな会話を繰りひろげ、好きな歌手の話や、うざい先生の話とかしていた。
でも、血気盛んなその時期、その子たちは、月日が経つほどにグレていった。
私には彼女たちの心の痛みはわからなくて、戸惑った。
私の何気ない一言で、彼女たちを傷つけてしまったこともあった。健全すぎて鈍感な自分を嫌った。
多くの苦労を背負い、繊細に生きてきた彼女達を羨ましくさえ思った。
分かり合いたかったけれど難しかった。
そんなわけで、上辺では仲良し3人組だったのかもしれないけれど、私には心底友達と言える存在はいなかったように思う。
考え方も違ったし、何より彼女たちはどんどんグレていったから、真面目な私は到底付き合いきれなくなり一緒に過ごす時間は減っていった。
2人はグレていくのと同じスピードで綺麗になっていったし、ますます強くて、優しくなっていった。
違う所に行ってしまった2人を、私は追いかけるということはしなかった。相手に合わせるという器用なこともできず「合わない友達と一緒にいるくらいなら、一人で居る方が楽。」そう結論付けて、努力することを辞めてしまった。
友達がいない、というのは、中学生の私にとっては結構なダメージだった。夜になると、パソコンをつけて、小学校の頃の友達とメールをやりとりしていた。
「大変だね、あんたがこっちにいたらもっと私達も楽しかったよ。」
そうやって慰めてくれる遠い友達の言葉を、明日を生きる活力にしていたように思う。
本当はわかっていた。
転校生だろうが、地元じゃなかろうが、友達作りが上手な子は、どんな場所でもうまくやっていける。
でも、当時の私は「ここは自分の居る場所じゃない。早く大人になって、関東の友達のところに戻るんだ。」と、夢を見ていた。
中二病みたいな一面、どうやらこの頃から変わっていないよね。
◇ ◆
どうしようもなく、孤独だった。
でも、孤独をぼやかして馴染ませることもできなかった。
その時ついてしまった癖が、今もまだ抜けない。
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