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齋藤綾嘉と言う人間2024/Instagramシェア

明けましておめでとうございます🎍
様々な想いを抱えながら過ごした年末年始

そこから描いた2024年最新 art workを
シェアします

鏡の中

わたしたちは空気を吸い息を吐く。
その吐息には色が無い。たくさんの人々の吐く息は混ざり合い色となる。そして夢の様で幻想的な世界を魅せてくれるのではないかと考える。わたしは雪の降り積もる樹々を見てその世界の色を想像する。そしてここに創造する。それは鏡の中の世界。

Human researcher, psychologist,
creator, digital artist:   Ayaka Saitou

青森に帰省した際に見た雪の降り積もった樹々達。それを観ながら感じた事はわたしが18歳のままずっと時が止まっている事。わたしの中のわたしがわたしに語りかける。どんなに変わり行く街並みを見ても歳を重ねた自分や周りを見てもやはり実家に帰ると思う。わたしの中で時は止まったまま、まだ動いてはいない。その複雑な感情が花開く。色は無いがこんな色があったらいいなと想像した鏡の中の世界。


薬は人間にとって時に毒となる。良薬口に苦し。
美しい花にもトゲや毒がある様にその二面性と多面的な側面は人々を惑わす。わたし達は常に生と死の間に存在している。

Human researcher, psychologist,
creator, digital artist:   Ayaka Saitou

良いものと苦いもの、甘くは無い人生そして
生きると言う事。薬は毒にもなり人の命を救う
事も可能で在る。人間の二面性や多面的な側面は
美しい花の様に、薬の様にわたし達は常に翻弄され続け、そして生と死の間で葛藤し続けている事に気づかされ描いた作品。


血縁関係

血は水より濃いと言う言葉がある。血の繋がりはそれ程までに強固である事の例えだ。しかし人間は血の繋がりだけが重要とは言い難い。血の繋がりが無くても愛はあり血の繋がりがあったとしても愛せない場合もある。血縁関係よりも強固なものは何か?答えはそれぞれの人間の中に存在する。

Human researcher, psychologist,
creator, digital artist:   Ayaka Saitou

わたしが今timelyに感じているものを描いてみた。久しぶりに帰省した時に痛感する複雑な人間の心。わたしのCPTSDは39年経った今も解決に至らない。悲しく切実に苦しくもどかしいが許すも許さないも無いのだ。心が身体が自分の意に反して叫ぶ。わたしは改めてこの自分自身の問題と向き合う事になる。


岐路

それぞれの想いや感情が交差するそれは岐路。人は重大な決断をすべき時迷い葛藤するその真ん中で今わたしは立ち止まり考える。光の指す方向は?正しい選択とは何か?自分の内側に在る感情に問う。もう路は決まっている。わたしの身体はそこに向かい歩を進める。時は止まらない。時は流れだ。時を感じて。


Time Flies...
時が経つのは早い


こちらのYouTube動画からわたしが感じた事。

まさに問題となっているのは所謂保護漏れと言う対象者でありわたし齋藤綾嘉も常々声を大にしている事もこの公開インタビューの中で語られている。救えるはずの命を救えない。救わなければ死ぬしか術が無い子供達がたくさん存在しているのだ。

2000年問題...
そうか、言われてハッとさせられた。
わたしも漏れなく保護漏れ対象者で言うならば
虐待サバイバーと名乗る事ができるのだがわたしはそうは名乗ってはいないし、さいとうさんの
おはなしstand.fmにて語っている様に人間は
皆サバイバーであり困難は1つでは無い。勿論だからこそ複数の困難を抱えて生きる人間もたくさんいる。

そうなるとやはり厳しいと思うかも知れないが
それでも生きているならそれで良しにしかならない。何故か?と聞かれたら、死んで行く命が在るからだ。確かに言い出したらキリがないほどの感情はわたしにもある。けれどどんな手段を使ってでも生き延びる事が出来ている内はその死を受け入れるしかなかった子供達の事を考えるとわたしから出て来る言葉はそうでしかない。

「甘えるな!それでも生きろ、何としてでも」

確かに社会、医療、親等の問題は尽きない。
結局詰まる所は全て「人間の話しになる」

そして更にわたしはその当事者であるだけで無く
まさにその「虐待」「育児困難」であるとされ
自分の子供を「保護対象者」として奪われた親の
立場でもある。何と悲しい事だろうか。

年間20万件(実際はもっとあるはずだ)
その中で保護漏れ対象者は何人存在し、そして
どれだけの命が失われて行っているのだろう?
「他者が介入する」と言う事は時に命を救う行為でもあり時に奪う行為でもあるのだ。

表裏一体、二面性、多面的に見る事の大切さは
そこに在ると齋藤綾嘉は考える。これは本当に
複雑で難しい問題だ。そして実に繊細な人間の
心に関わる問題でもあり、例え「生きぬいた」
としてもCPTSDの問題は必ず付きまとう。

そして実際に「誤解」「誤認」によりそうだと判定されてしまったわたしの様なケースの場合は
有無を言わず子供を奪われる事になる。
引き裂かれるのは関係性や距離や時間だけでは無い。当然わたしの心も引き裂かれるのだ。

前にも話した様に到底耐えられるものでは無い。
そこで奪われた全ての「時間」は戻りはしない。
それが親にとって、家族にとってそして「保護対象者」となった子供に対して与える影響は測り知れない。

一言に「保護漏れ」が問題であり命を救うために
と名を打って二次的または副産的被害を受けているケースが存在する事もまた事実なのだ。

かつてわたしは保護対象者になれず生きる事は
困難だった。それでも生きぬいて我が子が保護対象者になるこのあまりに理不尽な現実を到底
受け入れる事も許す事も出来ない。

わたしに押された「烙印」は消えず
押し付けられた「病名」により人間としての尊厳は傷つけられ人権を奪われる、そして更にわたしの言葉は力を持たなくなった。

おかしくても不条理でも理不尽でも理屈に合わなくてもそれが現在この世界に置いてのわたしの現実で現状だ。

わたしはそれでも諦めた事は無い、今も諦めてはいない。何度も諦めそうになった。そして死にたいとも思った。誰も助けてはくれないこの過酷な状況下にあっても「生きる事」を諦めてないからこそわたしは言う。

厳しいかも知れない。
酷いかも知れない。そんな事言われたく無いと
思うかも知れない。しかし誰もが

「明日は我が身だと思い生きて欲しい」

これは誰にでも起こり得る事であり
他人事であって他人事では無い。

対人間であるならそれはいかなる場合も
全て「痛み」を伴う。人間でなくとも生きる中で
「痛み」は伴うのだから。

もう直ぐ4年、月日が経つのは遅くて早い
わたしの娘はもう直ぐわたし達家族の元に
戻って来る予定だ。

しかし予定は未定であり「確定」では無い
常に想定外は想定内の範囲でやって来る
それに輪をかけて「想定外」は訪れる

その全てに人間は対処し切れるのか?
人間はそこまで強くなれるのか?

答えはnoであってyesだ

選択肢は常に自分の中にあり
するもしないも「決める」のはあなただ。
あなたが例えどんな選択をしても
誰にも咎める事は出来ない。

わたしが今言えるのは「後悔しない様に生きろ」

2024年1月11日
齋藤綾嘉はそう思いここに綴る。

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