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ひとりの環七、誰かと蔦屋で。

3月。テーマは「手放す」こと。

昨年の3月、わたしはInstagramにそう書いていました。

あれからもう少しで1年が経とうとしていますが、果たしてわたしは何か手放せたのかというと、手放してもいいような色んなものを「ずっと抱えたまま」だった、なんなら「増やしてきてしまった」ように思います。

その反面、自分の「好き」や「大事にしたい」は、持ち続けることができず、止む得なく、あるいは、無理やり手放してきてしまったような気さえするのです。



そして先週、「手放す」ということを改めて考えるきっかけが二度ありました。



まずは火曜日。

その日、自分から手放したものを、Twitter上にメモとして残してみたのです。

①②はともかくとして、③について。

「さみしい」という感情は、なぜか年々感じる機会が多くなり、それも予期せずにやってくる。誰かに打ち明けられたら、きっと少し楽になれるのなれるのかもしれないけど、そんなこと恥ずかしくてできないし、打ち明けられた人にとってはうっとうしいだけ。

そんな風に思っていたので、自分にとっても自分の中の「さみしい」はうっとおしく、なんなら「どこかに行ってくれ」とさえ感じていた感情でした。


この思い込みを手放してみたらどうだろうと思ったのは、この日、ひとりでいつも通りランニングをしていた時のこと。いつもの環七通りで。

「このところ、うまいこと自分の感情整備ができないのは、自分の中の『さみしさ』からきてるんじゃないか」、とふとなんの前触れもなく頭に浮かんできたのでした。

「だったら、さみしくならないよいうに常に誰かといる?いやいや、そういう問題じゃないんだよなあ。誰かといたって、さみしい時はさみしいでしょ」なんて自問自答しながら、至った結論は、「恥ずかしい」という気持ちを諦めよう、ということでした。

自分の「さみしさ」をなくすことはできないから、そんな気持ちを抱いてしまう自分を恥ずかしむ気持ちを受容してしまう。

そのためには、やっぱり自分の中でだけではまだ処理できないので、誰かに打ち明けてみたい。けれど、直接誰かに打ち明けてみるのも、自分にとってまだなんとなくハードルが高い。そんな訳で、第三者の誰かが見ているかもしれないし、見ていないかもしれないTwitterという場で公言してみたのです。

ちょっとこんな風にして、Twitterに自分の気持ちを小出しにして書いてみただけでしたが、不思議と少しだけ身軽になれたように思います。

今だったら、海に向かって「さみしいぞー!」と叫ぶことさえできそうな気さえする。実際、それこそ恥ずかしいので、しませんけどね。笑



そして二度目が水曜日。

代官山の蔦屋書店で開催された、「公開インタビューイベント a quiet dialog -『場』と『モノ』づくりの今 -」へ参加させていただいた時でした。

このイベントを知ったのは、長野県松本市内にあるマフィンで有名なカフェ、amijokのInstagramで告知されていたものを目にしたのがきっかけ。

数年前から、amijokがInstagramFacebookで発信されている、写真や文章の雰囲気が好きで、松本を訪れるたびに、お店の前をふらっと通り過ぎてはいました。

(が、いつもいつも間が悪いわたしは、お店のお休みや営業時間を確認せずふらっと立ち寄るもんですから、お店のマフィンの味は残念ながらまだ知らないのです…。)

それはともかくとして、今回のイベントに行こうと思った理由はふたつあって、ひとつは、amijokの店主、小島剛さんがわたしのこのnoteをわざわざ読んでくださっていることを思いがけず知ったので、メッセージ上だけではなく、直接お礼を伝えたかったから。

もうひとつは、今春、長野市内に、NorthSouthEastWestというamijokの2号店を作られるということで、ここまでに至ったお話を実際に聞いてみたかったから。


そんな動機で訪れたこのイベントの中で印象的だったのは、「想いは脇に置いておいて、少し手放すようにしてみた」という言葉でした。

自分は、想いや気持ちが先行してしまうタイプだという多少の自覚があるのですが、その自分の「重い想い」が、年々、あらゆる場面で重荷になっていました。

前回の今週のハニーで、ぺーぺーが生意気にも「書けない」と書いたのも、自分の理想とする文章と、実際のそれとの間にかなりの溝があったから。でもそれって、自分の文章に対する想いが強すぎた結果だと、今回このイベントに参加してみて思ったのです。

こういった想いは、突き詰めれば全部自分の自意識に過ぎないのでしょうが、この自意識と時には適度な距離をとっていかないと、確かに生きづらい。もっと客観的に俯瞰で自分や身の周りで起きていることを見ることができればなあと。

「想い」という自意識をいきなり手放すのは難しいけれど、自分と切り離して、少し脇に置いておく。

そうできたら、自分の中に新しい余白が生まれて、息がしやすくなるんだろうな、と思います。

想いを脇に置くことを覚えて、新しく余白ができたら、この1年でなんとなくこぼしてきてしまった自分の「好き」や「大事にしたい」を、改めて集めなおしてみよう、なんてことを思いました。



今回のイベントは、北欧のクリエイターの方たちをインタビューし、編集しているマガジン、『a quiet day』の最新号にamijokが掲載されている繋がりから生まれたそう。

その掲載ページにもありましたが、amijokを経営されている小島さんご夫婦の願いの中には、amijokというお店を、訪れた人たちにとって、いつでも戻ってこられるような「港」みたいな場所にされたいという願いがあるそうです。

会場には、長野からこのイベントのために来ていた方もたくさん居らっしゃって、それだけでamijokというお店が、お店を訪れた人たちの「港」のような存在となっているのが分かるような気がしました。

「お店とお客さん」、その関係性を、あの晩、蔦屋という空間で、誰かたちと一緒に過ごしたひと時の雰囲気で感じただけですが、なんだかほっこりとした気持ちにしてもらいました。

今度、実家に帰って松本に行く際には、いよいよ自分もお客さんとして、amijokのマフィンとコーヒーと、お店の空気感を味わってみたいな。そして、いつかわたしにとってもamijokというお店が「港」という存在になったら嬉しいな、と勝手に思っています。



先週はこんな風にして、ひとり環七で、誰かと蔦屋で、「手放す」を見つめ直すきっかけをもらえたのでした。



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