精神的クィアネス
*このエッセイは2022年5月刊行予定の書籍「言葉は身体は心は世界」に収録されています。
同世代のバイセクシャル男性と音楽の話をしていた時、ケイト・ブッシュはあらゆるジャンルや時代、情緒が一緒くたにつまって、歌詞の解釈もその時々によって変化していくから人生折々で触れたくなる大好きな存在だ、と話したことがあった。しばらく考えてから、彼は私のことを「クィアだ」と言った。確かに、いつの間にか私の人生の片隅にいるアイコンたちは、ジュディ・ガーランド、グレース・ジョーンズ、ボーイ・ジョージと言った面々で、なるほどと一瞬納得しかけ、否たかだか好きな音楽で他人にジェンダーを指摘されるなんてなんだかなあ、ともんやりした。
ピンと来てない私に、彼は「なんていうか、セクシュアリティとかジェンダー的な意味じゃなくてね」と補足をした。「マイノリティ」である自負の反動なのか、やたらものごとを「ロジカルに」定義したがる彼と、こうも言えるしああも見えると断定しきらない自分の会話は、なんだかちぐはぐで、結果ますますハテナが残った。しかしその会話から新しい時間を重ねるほど、彼の定義力は間違っていなかったと、かえって嬉しさが湧いているこの頃だ。
クィア礼讃の日
セクシュアリティ・ジェンダーにおける定義としての「クィア」に関する考えは様々あり、ここには書ききることができない。書ききったとしても、当事者でなく安全圏にいる自分が責任を持って発表する資格はないと感じている。
とはいえこの言葉に関して私が明確に言えるのは、もとは「風変わり」「奇妙」という意味だったのが性的少数者たちの蔑称となり、さらに性自認や性指向、アイデンティティを指す適切な用語に変化した経緯を経て、現在は「明確な定義を持たない流動する概念」として、性に関する数多ある定義とその外を浮遊し続けているということ。現在進行形で定義が変化し続けている言葉だとしたら、クィアネスはいよいよ身体や性にとどまらず、精神性に及ぶ概念となり、網羅する人間の範囲を拡大していくのではないだろうか。そんな希望的観測もありながら、すでに全ての人間にクィアネスを見出してしまっている自分から見える景色は共有の甲斐があると信じている。
私の誕生日は2月20日で、これは出雲の阿国が摺り足で動く舞ではなく跳ねる動きを取り入れた「踊り」(歌舞伎踊り)を舞った日なのだそう。日本の女性歌劇史上初めて男性様に断髪した男役で「男装の麗人」の異名を取った女優、水の江瀧子の誕生日でもある。
阿国は当時、男性のファッションとして流行していた「男伊達」という、男らしさを強調する派手な様式の格好をして流行歌とともに踊った。さらに元服前の男の子の髪の結い方「唐輪髷(からわまげ)」を頭の上に花びらが挿されたようにアレンジしたこの風貌は、遊女や伊達をきどる男性たちの間でも流行したそうだ。痛快なくらいクィアな話だと思った。
女性歌劇つながりで言うと、私は宝塚歌劇の男役にクィアネスを感じてしまう。宝塚の舞台上では、容姿端麗な女性団員たちが声や所作を通して性差を感じさせるため、日常の男女ではなく「男役」「娘役」という作り物の記号として存在する。この名称や制度、演出自体が前時代的、保守的なジェンダー概念を引きずっていると言う指摘があるのも事実だが、最近は時代の流れを明確に意識したようなトランスジェンダーと思しき役を(そうは明示しないものの)設定した作品もいくつかある。しかし、現代的な演出はさておき正統な男役の一挙一動や瞬間の美しさ—目深にかぶった帽子から覗く赤い唇、俯いたつけまつ毛がハッと客席に放つ鋭い眼光、細長い指に宿る儚くも鋼のような筋—を目にした時。そこには「男役」という様式美や皮膜のファンタジーとして片付けるにはあまりに濃度を持った、女性として、否、人間として誰もが持ちうるすべてがそこに存在している。
2月20日は魚座。この星座は「どの環境にも順応する水の星座ゆえ、自己と他者の境界を越えて溶け合っていく。むしろ最初から境界という概念が薄く、他者性を取り入れることに長けている」という話を、西洋占星術に詳しい友人に聞いたことがある。異なる性を自らに取り込みハイブリッドに昇華させ、波及力を持つ人々とゆかりのある2月20日を、クィア礼讃の日と呼ぶことにした。
ひとの身体の見方
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