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生きる力(統合失調症と診断された私が、結婚・出産し、公務員になった話その25)

精神疾患を患った人が、「目に見えない障害だから、周りの人たちからよく理解されなくて、困ることがある」というのは、よく聞く話である。かく言う私も、ぱっと見、障害を持っているとか、病気を患っていると見られることは少ない。障がい者枠で採用されたというのに、職場も、私が統合失調症を患った経験があるという事実を、無視してるのか、普段、普通っぽく過ごしているから普通の人だと錯覚しているのか、そうだからと言って配慮がなされることは全くない。それは、ありがたいことなのだろうか。普通の人と同じように見られて、そう扱われることは、果たしてめでたいことなのだろうか。

おさつバターフラペチーノ🍠と
モンブラン🌰で秋の到来を感じた🍂


私は、病気だと診断された18歳の頃から、まだ体調が不安定だった20代前半までの時代には、「普通の人と同じように元気に暮らしたい。健康になって、仕事もしたい。結婚もしたい。」と願っていた。現在はあの頃の願いは実現していることになる。

しかし、だんだん体調が安定してきた20代後半から、本格的に働き始め、私は「世の中の現実」と直面していくこととなる。病気の症状で苦しんだ20代前半までは、ほんの序章に過ぎなかった。社会復帰してから新しい章が始まり、「世の中の現実」との対峙が、私の課題として、現在もなお存在している。それは、「精神障害者向けに世の中が構成、デザインされているわけではない」という現実だ。世の中、と全体的に括れば、語弊が生じるかもしれない。それは、私の半径数メートル先の、職場とか地域とか周りの人とかを表すことはご理解いただきたい。それは私にとっての「世の中」。しかし、職場や地域や周りの人は違えど共通した「世の中」に暮らしている方もいるかもしれないので、引き続き、読んでいただければと思う。

元気に暮らせるように回復したことは、確かに喜ばしく、めでたいことだと思う。だけど、まだ疲れやすさを抱えていたり、あまりにもストレスフルなことはできない(短時間で一気に複数のことを片付けなくてはならない、苦手なタイプの人と密に付き合って仕事しなくてはならない等)、疲れが溜まり過ぎると精神的にも肉体的にも疲弊し、心身ともに調子が悪くなる、といったハンディキャップがありながらの生活だ。それは見た目では全く認識されない。職場は、私のような統合失調症の残存症状がある人がいるなんて、そういう見えない障害を抱えている人がいるなんて、ちっとも勘定に入れていない。そういう人もいるという前提で職場は構成されてはいない。

障害者雇用水増し問題(しょうがいしゃこようみずましもんだい)とは、2018年に発覚した雇用に関する不祥事で、省庁及び地方自治体等の公的機関において、障害者手帳の交付に至らないなど障害者に該当しない者を障害者として雇用し、障害者の雇用率が水増しされていた問題である。020年2月21日、厚生労働省は国の35行政機関すべてが2019年12月末時点で公的機関の法定雇用率(2.5%)を満たしたと発表した[1]。

ウィキペディア「障害者雇用水増し問題」

私の記憶では、「障害者雇用水増し問題」が発覚した2018年から、公的機関や企業での障害者雇用率へのチェックが厳しくなり、障害者雇用の求人が急速に増えた。今、私が働いている自治体も、この問題を受けてからなのか、2019年頃から障がい者枠の正規職員の採用試験を開始したような記憶がある。私が採用試験を受けて、採用されたのは2020年のことである。正規の障害者の採用を始めたことで、障害者雇用率は確保できるようになったのかもしれない。しかし、障害者本人の雇用が安定するように、障害者雇用が浸透するようにする対策は、何も講じていないように感じる。急いで数値ばかり確保しようとして、肝心の「働く人」、その「中の人」の実情をないがしろにしているように感じることは否めない。

私の見えないハンディキャップはいざ知らず、周りはたくさんの仕事を回すし、要求してくる。それに対応できそうもないと判断した私は、最近、上司に相談した。しかし、根本的な解決にはならなかった。私の障害への影響を心配するような声は全くなかった。結局は、全部、自分が片付けることになった。

「脱落したいのなら、いつでも脱落なさい。いつだっていいですよ。あなたが欠けても、職場は回りますから。」
私は、職場にはそういう空気が満ちているように感じてならない。私にだけ言っているのではない。全ての職員に向けて、何かが、誰かが、そう言ってほくそ笑んでいる。弱肉強食の世界がはびこっている。精神障害者の私には、なおさら言われているような気もする。いつだってあなたは脱落候補者ですよ、と。

精神疾患を患ったことのある私が、精神疾患の方も読んでくださっていることも多い私の記事で、こんなことを言うのは酷なような気もする。だけど、私は私の「世の中の現実」を伝えなくてはならない。何かに、誰かにかき消され、揉み消され、ないがしろにされてきた、その事実を、私のnoteには、ちゃんと記していかなくてはならない。

そして、その現実に、潰されたくない。負けたくない。脱落したくない。どんなに無様な格好でも、そこに依然としている。働き続けている。その事実でしか、その恐ろしい弱肉強食の空気に打ち勝つことはできない。出世しなくてもいい。煙たがられてもいい。時には休職したっていい。それでもその職場に依然として居続けている。それこそが、この場合での勝負の「勝利」であると、私は考えている。

職場が障害者向けにデザインを施すようになるまで、一体何年、何十年かかるだろうか?私の見えないハンディキャップは、いつ理解されるだろうか?そんないつ訪れるかもわからない待ち人を待ってからじゃ、今日明日の子どもの養育費も払えないのだ。だったら、「生きる力」だ。自分の「生きる力」を駆使していかなくてはならない。それは、生き延びるために、創意工夫する力だ。ハンディキャップがあるからこそ、生きる力がなおさら問われる。

ほんのささやかなことだが、私の仕事においての「生きる力」を少しだけ紹介したい。

雑記帳(名前が草)

↑業務に関連することが多すぎるので、隠している部分が多すぎる点はご理解願います。私は、思考を整理し、忘れないように、どんなささいなことも、メモするようにしている。この雑記帳は、再利用紙をB6にペーパーカッターで切って、紐で綴った、大変エコなものである。この地味〜な工夫のおかげで、私は地味〜に救われたことが何度となくある。「覚えている」ということは、仕事において非常に重要なことである。統合失調症を患ったことのある私は、忘れっぽいし、思考がまとまっていないと混乱する。なので、この雑記帳は救世主なのだ。

職場で笑い合える人がいること

↑職場で少数でも、笑い合える人がいること。それだけで私には「生きる力」だ。自分をよく思わない人、どうでもいい人だってたくさんいるだろう。いつ辞めてくれてもいいと思ってる人だっているだろう。その中でささいなことでも、笑顔を交わせる人がいる。それだけで充分、ほっとひと息ついて、癒されることができる。そういう人を、少しずつでも増やしていくこと。それが、私の「生きる力」のひとつだ。

定時には帰ります

↑子どものお迎えがあったり、時間外にはうるさい職場であることが幸いし、残業をあまり要求されない。これは、疲れやすい私には大変好条件だ。これを利用して、定時には帰るようにして、気力体力を温存することも、仕事を続けてこられている立派な工夫、「生きる力」のひとつだ。

本当にささやかなことだが、ささやかでも工夫を重ねて、私は生存し続けている。そして、これも心がけている。障害者だからといって、けして泣き寝入りしないこと、である。

上司に相談しても、解決に至らなかったり、逆に怒られたりすることがあったとしても、それでも、面倒がらずに言いたいことは言う。訴えることは訴える。職場の誰かには必ず私の「声」を届けるようにしている。それは、障害者の権利を声高に主張して、手厚い保護をされるのが当然だと叫ぶこととは全く違う。私は共に働く者である、組織の中の一人である、という大事な主張である。「私は職場にいてもいいのだ、大事なひとりなのです。」という主張である。それは「脱落したいのなら、いつでも脱落なさい。いつだっていいですよ。あなたが欠けても、職場は回りますから。」という弱肉強食の声の、私からの最大限のレスポンスである。

「いてくれたら、いいよ」ただその声が聞きたくて、私は働いているのかもしれない。それは同僚の声かもしれない。自治体の利用者の声かもしれない。家族の声かもしれない。もしかすると、自分自身が自分に一番掛けてあげたい声かもしれない。ただ自分の存在がそこにいていいのだ、と、それだけを確かめたくて、私は仕事をこなそうと躍起になっているのだろうか。ひょっとすると、弱肉強食の声は、自分が自分の存在を否定する、私の中の声なのかもしれない。私はその声と、今日も闘っている。けして負けたくはない。勝負の喧騒から離れて、帰路に着いた。束の間の休息に、身も心もほどけていくのを感じ、今日もひとまず、休むとしよう。


もうすぐ中秋の名月。
今日もすでに月が澄んで綺麗😍



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