![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/28097791/rectangle_large_type_2_236e4855c6eb65d5921615db89ac58af.jpeg?width=800)
うたおう、奏でよう、きみの音を聴かせて ③
聴くということの、不可思議なパワーについて書いてみるよ!
みなさん、こんにちは。
むらせあやです。みんなからはあやめと呼ばれています。
東京・千葉で中南米の楽曲を中心に、しずかな情熱に満ちたあいのうたをうたっています。こんなかんじです。(所要時間:約2分)
noteでは、自分の創造性を信頼するためにわたしが辿った過程を記していこうと思っています。音楽にまつわる圧倒的ななにかを持たざると知りつつも、素直に自分と向き合い日々表現を育むなかで見つけたゆたかさの記録。
本記事は、コロナ禍のちょっと気持ちが揺れがちだった時期にわたしが体験した「うれしさ」について主に書きつつ、表現への考察を綴っております。
▼前回までの記事はこちら
うたおう、奏でよう、きみの音を聴かせて ①
土屋絢子さんが作詞作曲した「奏で」という曲との出会い
うたおう、奏でよう、きみの音を聴かせて ②
オンライン飲み会で「奏で」をうたって感じたあれこれ
さて、前回は「わたしたちは、誰かから十分に聴いてもらったり読んでもらったりという経験が圧倒的に少ない世界に生きているのではないか」というお話で終わったと思う。
以下は去年、オープン・ダイアログという名の、フィンランドのケロプダス病院で1980年代から実践されている精神療法をテーマにしたトークイベントに参加した際に聴いた話。
心理セラピストとしての有効な訓練は、とにかく人に自分の話を聴いてもらうこと。自分が聴いてもらえて心から嬉しいという体験を積み、その感覚を手がかりにするからこそ、誰かの話をその深みで聴ける。
これはスピーカーとして登壇していた精神科医の森川すいめいさんの体験談。彼はケロプダス病院で受けたオープン・ダイアログの研修過程で、とにかく自分の話を聴いてもらう時間を重ねたのだそう。
興味深いことに、森川さんはこの研修過程を経てはじめて、それまで認識すらなかった自身に内在する傷やトラウマに気づき癒していったといいます。
そもそもオープン・ダイアログとは、投薬や入院による治療ではなく「聴く」ことこそが最高の治療となると実践を通して示してきた精神療法だ。
この治療法では、家族や友人、医師、心理カウンセラーなど関係者を招いた開かれた場でクライアントの話にじっくりと耳を傾ける。また聴く側のそれぞれの思いも対等な関係性を保ちつつ共有していく。
こういった対話プロセスの繰り返しのなかで、薬では起こせない変化がじわじわと起きて改善に至るのだという。
なぜこのエピソードを出したかというと、3月に参加したありちゃんの声磨きグループセッションでうたをじっくり聴いてもらったことが、オープン・ダイアログとどこか重なって見えたからなのだった。
そのセッションに6月、オンラインで再び参加することになった。そこでわたしはまたまた「奏で」をうたうことにしたの。うたいたい!
声磨きと呼ぶだけあって、このセッションはボイストレーニングを主な目的としている。基本的にはひとりひとりが好きな曲を持ち寄って、聴いてほしい部分をアカペラでうたっていく。
しかしやっていることの本質は、とにかく丁寧に声を聴き合うこと。みんながフラットな関係のなかで感じたことを伝える機会もある。
本当に不思議なのだが、十分に聴かれているとの実感を覚えると、なぜかうたい手は無防備で繊細な部分を自然と露わにしていく現象が起こるのだ。
そこでありちゃんは専門家として、その表現に必要と思われるちょっとした意識の変化を促すサゼスチョンをくれる。助言に従い再度うたってみると、声の質感ががらっと変わって本人のエッセンスがより深く響くようになる。
たとえば「奏で」を聴いたときにありちゃんはこう云った。
「ああ、いいうただこれは。響くね〜」
それからうたってみての感想をわたしに訊ねた。
振り返るとうたは「わたしの感じている」不安を表現するモノローグのようだった。コロナの自粛期間中、不安で叫びたいほどの気分があったわけではないけれど、そこはかとなく感じていた不安はたしかに存在していたのだ。
かすかな不安を無視せず感じて外に表現できたのは、寂しさもここに居ていい、涙も痛みも溢れていい、とあるがままを受け容れてくれるこのうたの歌詞のぬくもりや、こうして尊重して聴いてくれる場所があったからだろう。
それだけではなかった。うたうとき、同時にネット越しに読んだり聴いたりした、繊細な感受性を持つお友達のふるえる声たちともわたしは共にいた。
もとからの体調の崩しやすさから、自粛期間はちょっとした不調にも敏感となって眠れない日々を送っているだとか、健康でいなければ社会から排除されそうで、「元気?」の挨拶ひとつにも過敏に反応してしまうだとか。
彼女らを思うたびに、笑っていたいな 優しくいたいなと何度も感じたし、そのやさしい輪が広がっていくイメージを思い描いた。自粛警察などを知れば特に、ちいさな声でもうたって響きあえたらと、うたうたびに願っていた。
そんなようなことをありちゃんに伝えたら、
ポイントはそこだね。声を通して響き合うだね。
と、とても強い調子ではっきりこう伝えてきた。
今は、この6人が聴いているわけだけど、彩ちゃんに響いたら今度は同じ気持ちをみんながまた、誰かに響かせてくれる。その中心がこのうただと思ってうたってもらえますか。
うたうときいつも自分の内側を感じる意識がとても大きくなる。生来内向的なのだ。ふだんのボイストレーニングでも「内側と外側を感じるのは半分ずつだよ」と、マイさんがリマインドするように毎回声をかけてくれるほど。
ライブのときだって同じ。心のドアはいつもオープンにしているものの、陰に隠れ外を見つめるだけでなかなか出ていけなかったりする。その代わりみんなをいっしょけんめこちらに招待したりして。なにこのコンフリクト…!
声磨きの場ではみんながとても繊細に聴いてくれるから、そんなわたしのお誘いにもしっかりと気づいて迎えに来てくれるわけだ。やさしいのだ。でもそこにはまだ、分け隔てが存在しているのも実はうっすらと知っている。
今はまだうたを通じて「わたしのモノローグ」を誰かが聴いてくれている世界をつくっているに過ぎないのだ。でも本当はさ、みんなと一瞬でひとつになれる音楽の魔法を使いたいはずなの。
ありちゃんのことばがすぱっと身体を透過していった。するとことばにならない意思のようなものがおなかに満ちていき、再びわたしはうたいだした。
うまくは言えないがうたいおわったその曲は「わたしたちのうた」になっていた。Aメロで描かれる不安よりサビに宿る希望がうた全体に鳴っていた。
歌おう 奏でよう
春の陽を浴びて
祈ろう この胸を暖めてあげてね
もう一度僕らは出会えるはずだよ
来年の桜を一緒に見よう
何より驚いたのは、言葉交わさずともお互い響きあえたと分かったことだ。伝わったとわかるってすごい不思議だよね。うん、不思議なんだよほんと。
意味ではない。感情ですらない。震えなんだよね。ある質感のバイブレーションで共鳴できたときに生まれる静謐さ。沈黙のうちにただ共にあること。
きっと、おそらく、そういうことではないかと感じている。
ずっと聴くという単語を使いながらここまで書いてきたけれど、厳密に言えばこれは「感じる」行為だ。あるいはこうとも表現できる。思考を通さず身体性を持って聴く。その場で何が起きているのかをただ味わう。
そうそう、オープン・ダイアログをはじめとする臨床心理/療法としての傾聴も、事柄ではなく感情を聴く、非言語を読み取るといったことが「聴く」の中心だということを、知らない方もいると思うので言い添えておくね。
ちなみにここに掲載したふたつの音源は、セッションを受ける直前/直後に自分で変化を知る用にそれぞれ録音しておいたものです。セッション中のものではないけれど、それでもふたつの質感の違いを感じてもらえると思う。
感じるの難しい? ああ、そういう人もいるかもしれないな。巷に流れている音楽は、わかりやすく「ここが美味しいところだよ」って主張してくれるものが多いし、声に宿るものを聴くこと自体慣れない作業の人もいそうだね。
感じたり聴いたりする行為は受け身でいて、実際にはとても能動的なことだから、根気よく耳を澄まし続けることで分かるようにはなってくると思う。
もし分からなかったとしたら「神は細部に宿る」ということばを思い出してほしい。目に見えない微細な違いが質感に大きな差を与えることだったら、少なくともみなさんの経験のなかで思い当たる出来事があると思います。
今すぐ感じられないことがあっても、なにか残ると信頼してここに置いておきますね。そう、分かる人だけに分かってほしいじゃなくて、分からないなりにも一緒に味わえる、そういうコミュニケーションがしたいのです。
さて、最後にもうひとつ、オープン・ダイアログイベントで語られたエピソードで紹介したいものがあるの。それはイベントホストだった作家の田中真知さんがしてくれたこんなお話。(一部記憶があいまいでごめんなさいよ)
ルワンダだったかな? 虐殺の記憶で傷ついた人々を救うために、ヨーロッパからカウンセラーを派遣し人々の話を聞こうとしたが、当事者たちの反発に遭い、失敗したというのだ。そのとき、人々はなにで心の傷を癒していったのかというと、それは音楽であった。
ことばは難しい。いくら心的外傷のケアのためとはいえ、辛い話を思い出すのは傷口に再び触れる行為になり得る。もしこの方法を採用するのであれば、痛みを感じてもなお、癒し切るという当事者の強い意思が必要だ。
それでなくても心の裡を言語化する作業自体、ハイスキルすぎて誰でもできそうにない。なにより話すという行為は途方もなく時間がかかるのだ。
それを思うにつけ、思考のことばではなくからだへダイレクトにアプローチする音楽の、響きや揺らぎを介して交わされる非言語での交流に、わたしはどこか希望を持っている。
というかわたし自身、音楽の魔法によって心身の健やかさを取り戻した経験があるんだよね。そのちいさな灯を手がかりにうたい始めたのでした。
オープン・ダイアログによって「聴く」行為に治療効果があると認められた事実は、裏を返すとそれが毒にもなりうるということだ。だとすれば冒頭で述べた「誰かから十分に聴いてもらう経験が圧倒的に少ない世界」に生きているわたしたちは、日常をサバイバルしているとも言える。
そのとき音楽を味わうことーー身体感覚を持って聴く行為は癒しにつながるだろうし、これは個人的な感想だけれど、音楽に触れていると聴くチカラ、または身体感度といったものも自然と引き上がっていく感触がある。
身体の不調を薬で治療しながら、一方で自己免疫を高めることが同時に起きるというか。だからこそ暮らしに音楽を聴く機会、とくに生演奏を摂取できる機会を増やしていけたらと思うんだ。
そして、すこやかさをうたい美しさを奏で、みんなと響き合わせたいの。
わわ、最後はなんだかすごく長くなっちゃったね。「奏で」が連れてきてくれたここまでの旅を一緒に辿ってくれて嬉しいな。最後まで読んでくださってどうもありがとう。
そして「奏で」をこの世に放流してくださった絢子さんにも改めて拍手を。この曲は現在、東京都の文化支援プロジェクト「アートにエールを」に参画していて、こちらの動画で5人編成のすてきなアレンジを楽しめます。
ほんとうに素晴らしいね。ふわっとやさしく、それでいてたしかな意思を感じる、温かみのある声音。声に宿るものの質を味わうということ。
わたしは出逢いによって心に生まれたものを丁寧に書いたりうたうのがだーいすき。それらを支えているのは誰かの表現を読んだり聴いたりすることで、根っこは相手の間にあるものを微細に感じる行為でつながっている。
だからね、周りにいるいろーんなひとたちの表現を、魂が無防備にきゃっきゃしたり、静かに打ち震えていたり、はたまた叫んでいたり、そういう生きたバイブレーションを全身で味わいたいって思ってる。
それってプロだからできるってわけじゃない。そう表現するとはらに決めるからできることだ。生業にしてなくても有名でなくても、わたしの心を動かす表現をする人はたくさんいて、きみの音をもっと聴かせてって思う。
目には見えないけど、いつだってことばにならない世界を感じている。そこで出会いゆたかに感じ合える関係にすこやかさが美しく咲くと知っている。
一緒に咲こう?
らぶ。
Live music by Pf:佐藤まさみ B:土谷周平 D:公手徹太郎
Photo by soeji
読んでくださって嬉しいです。 ありがとー❤️