人として生きることに疲れただけ。
認知症とは、一体なんなのだろう。
何故、そうなるのだろう。
と、ふと思った。
一般的に病と呼ばれるすべてのものはそうだが、なる人とならない人が居る。
私の、107歳まで生きたおばあちゃんは亡くなるまで普通に生活をしていた。
視力が落ちたせいで、105歳を過ぎた頃からは、人の顔を見て誰かは分からなかったけれど、
「〇〇だよ〜」
と、声を聴かせて名前を告げれば、目の前に自分のどの孫がいるのかをバッチリ分かってニコニコ会話していた。
身体の機能こそ、衰えてはいたけれど、頭の中の世界的には、視力0.1以下の人が裸眼で暮らしているのとそれほど変わらなかったのだ。
方や、まだまだ身体は元気いっぱいなのにも関わらず、認知症状が出る人もいる。
私はその現場にいたことが無いので、統計的な傾向を体感しては居ないけれど、見聞きする話で感じるのは、認知症状を出す人はおそらく
“いい人”
を演じて来た人なんじゃないかと感じた。
色々なことを我慢して。
自分の境遇を嘆き続けて。
自分自身を欺いて、いい人をやろうとしてき続けた人。
そんな人が、年月を経てもうどうにも、正気を保ったまま、自分をだまし続けることが出来なくなって。
自分が。
周囲が。
世間が。
素晴らしいとされているような、
人として生きることに疲れた結果が。
認知症なんじゃないだろうか。
そんなことを感じた。
認知症になった人の世界を解説してくれる、こんなサイトがあった。
れをみていたら、とあることに気がついた。
この世界は、地球に生まれる前の魂の世界と似ている。
魂だけが生まれる前に戻って、だけど身体に閉じ込められているからままならない。
“こうあらねばならない”
が強ければ、認知症は辛い病気と考えるのかもしれないが、身体より一足先に、魂がこの世界から解放された状態に近いかもしれないと考えたら、
もしかしたら、それほど嘆いたり悲しんだり、気の毒に思うことはないのかもしれない。
そうなる前の方が、きっとその人は無理を重ねて居たのだろうから。
認知症にならないためには。
私のおばあちゃんは、とても自由な人だった。
他人に媚びを売るような生き方はしていなかった。
周りのために動くような事も沢山していたけれど、他人の顔色を見て他人に合わせて生きるようなことはしていなかった。
眠りたいだけ眠り、好きなもの、食べたいものだけを食べたいときに食べていた。
お酒を飲んで、自分で育てた野菜を食べていた。
そんなことが多分、ヒントなのかも知れないと思う。