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他人と自分の境界線
ブログなど、SNSで発信をしていると、自分と異なる意見を持つ人から、否定的なコメントを貰うことがある。
そんな時、私は今まで相手の気持を汲み取りながら、間を取って歩み寄るような姿勢を見せることが多かった。
もちろん、明らかな嫌がらせやあらし行為の場合は、運営に報告したり黙ってこのコメントを削除したり放って置く対応を取るけれど、そうではない場合は、ということ。
私は今まで、お気に入りのブログを読んでいても、自分と意見が違う場合、それが自分の正義に抵触していると、つい苦言を呈したくなることがあった。
ご意見番の登場である。
自分の正義を当たり前の絶対だと過信していたので、それを相手に分からせたいと思っていた。
ところが、そんな自分自身のコントロール欲を自覚して手放してみた途端。
それまでの私は、なんと厚顔無恥なことをしてきていたのであろうかと、ゾッとした。
それは、他所の家に招かれてもいないのに勝手に上がり込み、ティッシュケースを置く位置が不便だと文句を呈しているのと同じことだと気がついたから。
ティッシュはよく使うから、こんな部屋の端に置くなんておかしい!
と、勝手に自分の家に上がり込んでわめいてくる人がいたら、迷惑極まりない。いいから出てってくれ、と言いたくなる。
だけど、今までは自分がそれをやっていたからこそ、それをしてくる人の気持ちもわかるから、相手の言い分も認めてあげようとしてきた。
それは、自分だって言い分を認めて欲しいからだ。
このことに気づいて、自分が他所の家に勝手に上がり込んで文句を言うようなことをしなくなった代わりに、それをされた時の自分の反応も変化した。
自分が何故そうしたのか。
相手の正義とはどう違うのか。
それをハッキリ相手に伝えるという選択を取るようになった。
つまり、「ここは私の家ですよ」と言うようになったのだ。
他人と自分の境界線が曖昧だと、どこからが自分の領域でどこからが他人の領域なのかが曖昧になる。
私には、私の想いのモノサシがある。
それはあっても良いもので、だけど他人から言われて曲げるものでも無ければ、他人に押し付けるものでもない。
私のモノサシは、私の個性に繋がっている。そういうものだ。
だから、他人のモノサシを押し付けられたと感じた時に、そこでどちらを採用するのかを争う必要もなく
私のモノサシはこれですよ。
ただ、そう言えばいいだけだ。
ほんの些細な反応だったけれど、明らかに今までの自分とは違う反応を選んでいた。
自分の在り方の変化を明確に感じた、そんな出来事だったのだ。