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苦しさを解く餅つき

何故だか分からないけれど、生きるのが苦しい。

一見幸せそうに見えるはずなのに、本人は満たされない。


そういう時、突き詰めていくと原因は、小さな頃にうっかり握ってしまった、些細なこと、だったりする。


小さなときに、ひゅっと自分の中に入って来た

悲しさ。

それが拗ねになり、

拗ねが怒りになり、

後は、その怒りの証拠集めの人生になっていく。


そりゃ、そんな人生苦しいよ。


そして、その証拠集めの現場も、

その証拠集めを終わらせるための鍵も、

人との出会いだったりする。


ひとりきりでその苦しさと向き合ってみると、

小さな頃に握った悲しさの原因には、なんとなくたどり着く。

原因にはたどり着くけれど、その先に進めない。


元々、強くブロックしてしまったものだから、痛過ぎて向き合えないのだ。

とてもじゃないけど、受け止められない。

だから、これが原因だ。以上。

という、モヤモヤとしたところで止まる。


それが、どんな風に作用して自分を悲しくさせたのか。

どんな風に拗ねに繋がったのか。

その繊細なところが一番大切だったのに、その、ストーリーの繋がりがぶつ切りになっている。


そんなとき。

心のうちをさらけ出しあえる相手が居て、

その悲しみについて、とことん、聴いてもらうことができたら。


当時、心に蓋をしてしまった苦しかった感情を、とことん味わい尽くしたら。


ポン、とそれまで蓋をして隠してきた、悲しみや拗ねの正体が、顔を出すことがある。


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その時の会話は、差し詰め餅つきのような感じで、

ひとりで、臼の中に置かれた餅米を杵でついていても、中々お餅にはならないもので、的確に合いの手を入れながら餅をかえしてくれる相手が居てこそ、楽しく早くお餅ができる。


苦しさを話す人が、餅米の入った臼の中に杵をつく。

餅米が充分に潰されるまでは、聞き手は手を出さず、合いの手だけをかける。

餅米が潰されて、粘り気が出てきた頃、聞き手は杵にくっついた餅を見つけたら、取り除いてサッと臼の中央に戻す。


この時にもし、聞き手が杵に付いた餅を見て、

「杵に餅をつけるな!」

と叱責したり、または知らん顔して杵に餅がついたまま放置していると、当然ながら餅つきは上手く行かない。


呼吸を合わせて、同じリズムでテンポ良く、そして何よりお互いを信頼した関係でなければ、なかなかお餅はつきあがらないのだ。


もし苦しくて、ひとりでの餅つきに限界を感じたとき、周りに話ができる人が居なければ、カウンセラーや占い師の元を訪れることになると思うけれど、この時に大切なのは、支払う代金の額でもなければ、有名か無名かなどでもなく、

だだ、ただ、自分と相性がいいのか。

お餅を楽しくつける相手なのか。

そこが一番大切になる。


そして、どんな人に話すのかが、めちゃくちゃ大切になってくる。


あなたが上手く杵を扱えない様子に苛ついて、

杵を取り上げてくるような相手は論外だし、

その事を叱責してくる相手も論外だ。

杵を上手く扱えないからと言って、餅つきをやめてしまうのも勿体ない。


ただ、ペタペタと杵を打ち付けるのに、合いの手を入れながら、一緒に臼の中の餅を見守ってくれる相手が居たら、最高だと思う。

そして出来れば、その相手と、杵役と合いの手役を、入れ替わりながらお互いがつとめられたら、もっと素敵だと思う。

杵を持つ気持ちもわかるし、合いの手役の気持ちも分かると、立場を入れ替えたときに、よりよいように工夫していくことができる。

すると、お餅をつくリズミカルな呼吸が出来上がってくる。

杵をうつ相手の癖が分かってくると、よりお餅つきが楽しくなってくる。

「この人は、臼の6割手前に杵をおろしてくる。」

ということが分かれば、合いの手役は杵から剥がした餅を、臼の6割手前に置いてあげる。

そうすると、よりお餅が早くつきあがる。


そして、二人で顔を見合わせて

「6割手前」

と言う合言葉で笑い合う。


それを、ありふれた言葉を使えば

「親友」

と言うのだろう。


ジャイアン的に言うと「心の友」かな(笑)


苦しさを解く道につながる会話は、

まるで阿吽の呼吸のお餅つきのようだと思う。

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