何故不良は捨て猫を保護し、優等生は人を殺すのか
ギャップ萌えとか、そう言う話ではなく。
意外性が話題になる、という話でもなく。
少数派だから目立つ、という訳でもない。
実際に、学生時代「不良」「落ちこぼれ」と呼ばれた子どもは、捨て猫を保護するような優しさや、若くして起業するようなガッツを見せる事が多いと思う。
そして、学生時代「優等生」「品行方正」と呼ばれた子どもは、自他問わず人を殺す人生を歩むこともまた、多いのではないだろうか。
これは、当然そうなるべくしてなっている、と思う。
何故なのか。
そのからくりについて、ふと思い当たった事があった。
この話は、人によってはかなり心に痛い話なので、読むかどうかは十分注意して自己責任でお願いします。
私の幼なじみはとても優秀な子だった。
明るくて楽しくて友だちがたくさん居て、成績優秀でなんでもできて、学級委員長をやるようなみんなの憧れの子。
大人受けのとても良い子だった。
普段、家で本を読んだり漫画を描いているような、友だちが少ない大人しい私とも仲が良かった。
そんな彼女が、私に時折こぼす事があった。
「みんな私の事を、明るい明るいって言うけど・・・」
「本当の私はかなり暗いのに。」
そうして、普段、取り巻きの中心で派手に遊んでいるように見えた彼女は、時折私と図書館で読む本を探したり、漫画を描いて交換したりしていたのだった。
私はガチャガチャした子が苦手で、大人しい子とばかり仲良くして居たから、そんな私と仲が良かった彼女は、今思えば本当は大人しい子だったのかもしれない。
「優秀な子」「不良」とは、一体誰の物差しなのだろうか。
通知表の評価を決めるのは、誰のどんな物差しなのだろうか。
英語が出来る日本人が、そんなに偉いのだろうか。
漢字が沢山書ける事が、そんなに素晴らしい事なのだろうか。
朝、まだ眠い中叩き起こされて、親の言われるがままに登校し、どこの馬の骨とも分からない大人の言うがままに行動する事が、本当に立派な事なのだろうか。
学校の教師とは、大学に行って教職課程を取った人間のことだ。
金と時間をかければ誰でも、どこの馬の骨でも簡単になれる。
ごめんね、教員の方々。でも、どんな職業も同じ。
私は神職だけれど、神職だって金と時間をかければ、どこの馬の骨でも実はなれてしまう。
医者だってそうだ。学者だってそうだ。金と時間を積めば実は誰だって、なれる。
現在の「職業」とは、押し並べてそう言う事なのだ。
つまり、自分の大切な子どもを、そこら辺にいるどんな思想を持った奴なのかも分からない、見ず知らずの人間に、我が子の人格形成の過程をまるごと預けてしまう。それが学校教育を受けさせる、というものなのだ。
ただ単に、読み書き算盤を教わるだけであれば、それはとても大切な事だ。
でも、学校ではそれ以上に
・先生という権威を持つ大人には、無条件に従わねばならないという奴隷根性を植え付け
・クラスメイトや学年全体で子どもを比較して優劣を決め
・言う事を聞かない子どもや、先生という権威を持つ大人の思い通りにならない子どもの人格を否定し
・通知表という形で将来を脅かしてくる
場である事が、ままある。そういうシステムになっている。
どんなに子どもたちのためにと夢を抱いて教師になった人でも、現場のシステムがそうなっているので、自分の思いと実際のシステムの狭間で苦しんでいく事になる。
分かりやすく端的かつ極端に書き記したが、
つまり「優秀な生徒」と呼ばれる子どもは、
「将来有望と権威ある大人に認めてもらうために、自分自身の気持ちを封じて奴隷根性を身につけ、大人の顔色を見るのが上手になった子どもである」
という証明の方程式が成り立つのではないか・・・と
昔、先生という権威ある大人から教わった方程式を使ってみた。
一方、「不良」と呼ばれる子どもは、そんな権威ある大人の思い通りにならない、自分自身の意思を守り通した子どもである。
現在増えている不登校児も、つまりはそういうことなのだ。
自分自身の尊厳を守るためには、権威ある大人から「そんな事じゃお父さんお母さんが泣くよ」「将来ろくな大人になれないよ」「君の将来はお先真っ暗だ」という呪いの言葉のシャワーを浴びながらも、それを払拭し続けてきた子ども、という事になる。
そりゃあ、タフに鍛えられた精神で起業もするし、捨て猫の境遇に思いも寄せられるだろう。
ニュースで見かける、殺人犯の近隣住民の「とても良い人でまさかあの人がそんな事をするなんて」というコメントは、まさにその通りで
小さな頃から権威ある存在に従い続け、自分自身を無きものにしてきた人は、自らの「尊厳」というものを麻痺させ続けて生きてきたのだ。自分の尊厳を守れば、権威ある大人たちから評価されないのだから。
尊厳が分からなくなった人間は、自分自身を大切な存在なのだと思えなくなっている。自分の意思よりも権威ある大人の意思が最優先である、と叩き込まれて育ったのだから、自分が大人になってもなお、権威ある他人に従い続け顔色を見続ける事になる。
次は誰に従おう。
自分で選べるのは、その一点だけなのだ。
だから、新興宗教に入信する人には、高学歴のいわゆる「優秀な良い人」が多くなる。自分が従う相手が崇高な教祖である事に、せめてもなけなしの尊厳を見出す。
大企業で、上司の顔色を上手く読める人が出世していく。子どもの頃に培った、権威ある人に従い続ければ上手くいく環境がそこにある。
それを人生のエリートコースだと擦り込まれ、自分はエリートなのだと思い抱いた自尊心は、尊厳とはかけ離れたただの「傲慢」。
冒頭で話した私の幼なじみは、数年前にとうとう自らを殺した。
絵に描いたようなエリートコースを辿る前半生だったけれど、その中で失った尊厳が、彼女を苦しめ続けたのだ。
私は彼女のようなエリートでは無かったけれど、似た轍に嵌って居たから、彼女の本当の痛みを見つける事が出来なかった。
自分の顔を自分では見る事が出来ないように、自分が抱えている不具合は自分では見えないものだ。
誰の物差しかよく分からないものに苦しめ続けられ、権威ある誰かに認められるか否か、で生きていくのは苦しいものだ。
とても、苦しいものだ。
もしそんな「エリート」が、捨て猫を拾うとしたらそれは、「良い人」という評価を誰かから得たいがため。すぐに写真付きでツイートする事だろう。
そんな気持ちから拾った猫と暮らすうちに、もしかしたら猫から何かを教えられるかもしれない。
飼い主の言う事を聞かずに、好きなように振舞う猫に
「ああ、それでいいのか」
という、本来の幸せな生き方を。
もし。
あなたが今、人に認められてエリートコースを歩んでいる筈なのに、何故か苦しいと思うならば。
一度、一人になって静かな世界で生きてみると良い。
権威ある誰か。
従うべき誰か。
そんなすべての存在から一度離れてみると、良いかもしれない。