見出し画像

【書評】安部公房「水中都市 デンドロカカリヤ」

#読書感想文

「デンドロカカリヤ」が読書会課題だったので再読。再読する前までは、単純にイメージの喚起が素晴らしい短編だと思っていた。しかし読み返してみると意外とメッセージ性がある。
 安部公房を手放しで称賛したくならないのは、「巧みさ・器用さ」にある。労働者の悲哀、都市生活者の悲哀、貧乏人の悲哀、など当時社会的に受け入れられやすいような何らかのテーマ性を、誰にでも分かるように入れ込みつつ、上手いこと不条理文学を組み立てている、という感がある。
 この種の器用さは、例えばカフカなどにはなく、逆に言うとその種の器用さがないこと、不器用であることから生じる、作品執筆に対する内的必然性が、カフカの作品を内から輝かせている。
「安部/カフカ」の対比で言うと、安部にはやはりその種の内的必然性、切実さ、のようなものがどうにも欠けているように感じられる。安部作品の根底には遊戯性があるように思われ、それがともすると不条理文学という本来病的な人間が病の治療として書き上げるようなものを道具的に用いているように感じられることもある。
 他方で。
 安部文学の好ましい点というのもまさにこの遊戯性にある。自分が好ましいと思う安部作品は例えば「デンドロカカリヤ」や「詩人の生涯」で、これらも確かに都市生活者や貧乏人、労働者の悲哀を描いたものではある。ただ、そうしたわかりやすさはあるにせよ、理屈をぶっちぎって突き抜けるくらいのイメージの遊戯があり好ましい。
 エッセイ「死に急ぐ鯨たち」で安部は以下のように語る。

 たしかに分析癖の過剰は否定できない。たとえば人並み以上に数学が好きだし、得意でもある。だがその分析癖のおかげで、皮肉にも、分析が作家の仕事にとってむしろ有害だという分析結果にたどり着いてしまったのだ。以来、プールでの努力は断念したが、作家としてはなるべく分析をやめてイメージに身をまかせ、言葉のなかを泳ぐように書こうと努めている。
(死に急ぐ鯨たち:安部公房:新潮社:p48)

「イメージに身をまかせ、言葉のなかを泳ぐように」書かれた作品が、やはり自分にも好ましく感じられる。他方で、安部の長編はすべて分析癖の過剰によってイメージが死んでいるように感じられ、あまり感心したことがない。


以下デンドロカカリヤ単体の書評

「コモン君がデンドロカカリヤになった話」というはじめの一文がいい。「まともな話書きません」という宣言のようで。そして語り口にも工夫がある。「かもしれないよ」「だったね」「思いつかないのさ」といったように、ラフな語り口調の文体が、幻想味を際立てている。
 人が植物になってしまう、という着想自体は特別奇抜なものではないが、それを作品化する手腕はさすが。コモン君がわけもわからず右往左往する様子、謎の男Kに付きまとわれる様子、思惑が裏目に出て植物園入りしてしまうところ等々、物語として面白い。しかし客観視して見ると、この話を成り立たせている地盤には「都市生活者の孤独」といった社会病理がある。そういう視点から改めて醒めた目で見てみると、ちょっとあからさまな気もしなくもない。
 コモン=「common、普通、一般、凡庸」ということなので、一般的な人間の様態を戯画的に描いた作品と見ることができる。
 なぜコモン君は植物化してしまったのか。
 ぱっと思いつく限りだと。
 都市生活によって孤絶した結果として、顔が裏返り(=内省的になり)自足した存在(=植物)になってしまった、ということだろうか。自己を見つめ、自己で完結した存在になった、と。しかもそれが一般的、凡庸な人間のありかただ、と。つまりこの世界では人間が普通に暮らしているだけで孤絶し植物化してしまうのだ、と(これは当然社会批判でもありうる)。
 作中ではコモン君に知り合いらしい知り合いが一人もいないし、手紙から「K嬢」などという架空の存在を想起し、それも恋人に違いないという勘違いまでしてしまうのだから、コモン君の根底には孤独がある、ように思われる。Kはそうした、孤独を抱える都市生活者のなれの果てである植物体を採取し植物園に取り込むことを生業としている。コモン君はまあそれでいいような気がするが、Kはどうだろう。社会の権化? 人に無慈悲な社会システム。
 作品が発表された時代背景はどうだろう。高度成長期あたり? だとしたら、都市へ人口集中し核家族化が拡大し云々という社会状況が作品受容の受け皿になったのかもしれない。作品の思想は現代においてもずれてはいないが、当時ほど求められているわけではないだろう(もはや現代において、人々は植物化をすでに受け入れてしまった感すらあるので)。
 昭和二十四年。ああ、戦後復興期か。復興と発展。都市生活者の孤独を描いた作品だとすると、ちょっと早すぎる? あるいは戦争によって人とのつながりが断たれた状態にあっただろうし、そういう意味では人々の孤独に響くところがあったのかもしれない。

***********************

 とはいえ結局安部文学というのは、「社会の病理」みたいなものを悲喜劇的に描き出すという作風なんだよな。根底には「社会の病理」が必ずあり、だからこそあれだけ有名になれたのだろう。今回改めて「デンドロカカリヤ」を読み返してみて、その種のあざとさというか、「上手くやっている感」というのが感じられて意外ではあった。
 そう、「社会の病理」を根底に据えれば、その上で「イメージに身をまかせ、言葉のなかを泳ぐように」書いたところで、そこまで外れたものにはならないだろう。
 盤石な地盤の上でこそ、イメージの遊戯が成立する、と。
 これは勉強になる。


この記事が参加している募集

#読書感想文

189,831件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?