決意という幻

「決意を新たにする」ことを疑い始めて10年以上経って、気づいたことがある。決意とは幻で、自分を気持ちよくするための、もっと言えば芯や軸がある風を装うための儀式に過ぎないということだ。

 人間の意識や思考なんてものは風と同じで、地球の反対側で起きた蝶の羽ばたき一つで向きも強さも変わるものだ。そもそも揺蕩っているのが自然なのに、それを固めようということ自体がおこがましい。生命への冒涜とまでは言わずとも、非人間的行為、非動物的行為だと思う。
 
 思い出してみてほしい。決意を固めたあの日のことを。私利私欲にまみれていたその瞬間を。欲求は長続きしない。欲が叶えば滾るような情熱も雲散霧消する。吐き捨てた大言壮語は既にゴミ処理場で灰になって、太平洋上の海で藻屑となっている。なんなら大気を汚染するだけして、今も素知らぬ顔で生きているあなたは猛暑を避けるためにクーラーの効いた涼しい部屋でNetflixの新作ドラマを興味なさげに眺めている。地球温暖化はニュースで語られる遠い何処かの話になって、その耳をすり抜けていく。他でもないあなたと私がその片棒を担いでいるというのに。諸悪の根源は、私とあなたがかつて陥ってしまった非人間的、非動物的営みだというのに。

 思うに決意は幻で、悪だ。蛮行と言える。決意を固めてその通りに事が運んだとしよう。それで、それが、なんだというのか。意識も思考も不自然に固定して、その通りに物体を動かして、人の心を動かして、自分を動かした。ただそれだけのことをどうして誇れる。どこにも人としての、動物としての高潔さなどありはしない。それはただ知性の奴隷として命を消費しただけだと、どうして認めない。本当は分かっているはずだ。決意した通りに心身を操ることの虚無性を。恥ずかしさを。知っているはずだ。感じたはずだ。
 その証拠に、世界は必要以上に「本気」や「決意」に焦点を当てて他人を推し量ろうとする。なぜか。それは見る目がないからでしょう。自分のことも他人のことも信じられないから、信じる材料が欲しいのでしょう。
「あなたはどんな決意を固めたの?」なんて聞くまでもない。目を開いて相手を見ればそんなものすぐに分かるのに、目を開けないから分からない。相手がそれを言葉や分かりやすい態度で示すのを赤ん坊のように待って、それを合図に「よし、あなたを信じましょう」と始まるその関係をままごとと言わずなんと呼びましょう。それこそが人が陥る最も卑しく罪深い生命への冒涜だと、声を荒げるべきでしょう。

 人には人を信じる機能が備わっていると、そう信じることから始めてみたい。わざわざ自分を不自然な形に固定して、誰の目にも分かりやすいパッケージングなんてしなくたって、自分で自分を信じていい。そういう人を信じていい。
 信じられないほど分かりにくく複雑に見えるのが人間だけれど、目と耳を開けばその複雑さはとたんに消えて、裸の相手が見えてくる。その魔法みたいな目と耳を誰もが備えて生まれてくる。

 宝物みたいなそれを研ぎ澄ますことにこそ一生懸命になるべきだ。
 私たちには、知性の奴隷になって一喜一憂するいとまはない。決意を固めるいとまはない。ただ、その宝物を磨いて、もっと広く深く世界を知ることにこそ注力したい。まずはそこから、始めてみたい。

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