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文才って

人生はため息と舌打ちの連続。こんにちは。

今まで口に出して言ったことはないが、恥を忍んで打ち明ければ私は文章でお金をもらいたいと思っている。

私にとって「文章でお金をもらいたい」と言うことは、今のところ、不特定多数に向かって「誰か助けてー!」と叫ぶくらいハードルが高い。

不意に高田馬場駅のホームで痴漢を捕まえた時のことを思い出す。逃げようとする痴漢に引きずられながら「助けてください!!」と叫んだが、誰も助けに来てはくれなかった。列車が私の荷物だけを乗せて目白駅へ走り出す。午前8時の絶望。

今回も同じことが起きたらどうしよう。意気揚々とnoteに決意表明してなんの反応もなかったら超恥ずかしい。こうやって、自分のしたいことを躊躇いなく口にすることは成功への近道に違いない。周りの器用な人たちはそうやって人脈を広げておぜぜを稼いでいる。私もそうなりたい。

先日、何の気無しに鳩を頭に乗せた写真をアップしたら予想外に大バズりして、マイナビニュースにまでなってしまった。

これ幸いとnoteのリンクを鳩の足にくくりつけてみると、拙文への反応をいくつか頂くことができた。

「わかりやすい」

「おもしろい」

「文才がある」

文才。文才ってなんだろう。この言葉には以前から少なからず疑問を抱いていた。もちろん「文才あるね」と褒められることは嬉しい。でも、それと同時に「小説家に文才あるねとは言わないよなぁ」とも考える。

小説家に文才があるのは前提なので、みんな小説家の文才は誉めない。文才があるという褒め言葉には少なからず容姿や振る舞いと比較した結果のギャップが含まれているのではないだろうか。らしからぬということ。

無口のユーモア、ギャルの静謐、コメディアンの哲学。そういうらしからぬものが文章として表れたとき、人は「文才があるね」と口に出すのだと思う。

私は小さい頃から言葉に執着があった。見た目が外国人だし、通りすがりに「外国人だ。気持ち悪りぃ。」と言われたこともある。それでも日本語しか解らなかったし、日本語が好きになった。ほんの少しだけ憎んでいるのかもしれない。言葉がわからないと決めつけてからかってきた連中が、到底書けないような美しい文章が書けたら、私は気が済むのかもしれない。一時期はそう思っていたけど、最近になって、やっぱり好きなんだなと思う。

合唱団に10年近く所属していたことも影響していると思う。美しい音に美しい言葉が重なる瞬間が、少女時代の私の心を何よりも動かした。今でも風呂場で歌を歌ったりしていると夢中になってシャンプーを3回したりしてしまう。音楽がなくても、言葉にはリズムがあって、色があって、メロディがあると感じる。

言葉はツールだ。言葉には情報を凝縮する役割がある。凝縮することで人類はより多くの情報を簡潔に伝えることができるようになった。でも、物書きはそれを台無しにするためにいるべきだと思う。情報を圧縮するのが言葉の役割なら、それをもういちど分解して並べて組み立て直すことが「文章を書く」ってことなのではないか。

こねくり回して放り投げて飾りつけて、役立たずのガラクタにする。その魅力が文才の有無。これも文才という言葉が孕んだギャップなのかもしれない。と、勝手に納得してみる。

連載がほしい。


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