わたしたちには満たそうとしても満たせない欲求があるのではないか
3年前の夏、マズローの段階欲求説についての自由研究をした。
ピラミッドの図で知られるマズローの欲求段階だが、実はピラミッド型ではなかったのではないか、という話だ。
3日前、済州島の手前の乗り換え地である釜山に向かう飛行機の中でふと、「マズローの欲求段階説には含まれていない、根本的な欲求のようなものがあるのではないか」という考えが浮かんできた。
そもそもマズローの欲求段階説には否定的な考えも多くあると言うし、自分自身やセッションでご一緒するクライアントさんたちの体験と照らし合わせても「これでは説明しきれない」と感じる。
「確かにそうかなと思う部分もある、でもそれだけではないとも思う」という感じだ。
・高次の欲求の現れは低次の欲求が満たされたという証なのだろうか
・欲求が満たされていくとわたしたちは満たされたと感じる人生を送ることができるのだろうか
etc…
たとえば、マズロー個人が自分の中にあると見つける(認める)ことができなかった何かが、その時代に生きた人々の中に共通して満たされていなかった何かがあると考えると、マズローの欲求段階説からこぼれ落ちている何かが見えてくるのではないか。
そんなことを思って飛行機の中でぐるぐる考えを巡らせて、降ってきたのが「『わたしはここにいていいんだ』と思える感覚」という言葉だ。
「無条件に」という言葉を付け加えてもいいかもしれない。
これは「存在承認」とは異なる。
承認欲求は「誰かに認められたい」という欲求のことだ。
存在承認、行動承認、成果承認、成長承認といったものがあると言われるが、どれも「他者から与えられるもの」になっている。
それに対して「『わたしはここにいていいんだ』と思える感覚」は他者に依拠しない。「自分でそう思える」というところがポイントだ。
「感覚」という言葉を使ったのは、それが「欲求」として明確に認知されるものとは異なるもののような気がしているからだ。
欲求としては認知されないが、満たされていないとそれを満たすために何かしらの欲求が起こる。仮にそんなメカニズムがあるとすると、わたしたちが「欲求」だと認知しているものは他の何かを満たすための代替欲求である可能性が出てくる。
代替欲求の奥にある「本当は満たされたいもの」を基底欲求と呼ぶとすると、「代替欲求を満たしても結局基底欲求は満たされないのではないか」「代替欲求を満たすことでむしろ基底欲求がさらに満たされなくなることもあるのではないか」というさらなる仮説が湧いてくる。
言葉を戻すと、
ということだ。
「『わたしはここにいていいんだ』と思える感覚」は所属の欲求ともやはり少し異なる。
所属の欲求には所属する対象となる特定の集団があり、欲求はその集団に所属するメンバーとの関わりによって満たされる。
承認欲求と同じく依拠する他者が必要になる。
他者の存在によって支えられる欲求は、満たされたときの満足度は高いが、脆く崩れやすい。
他者が自分をどう扱うかは究極コントロールすることはできない。
「『わたしはここにいていいんだ』と思える感覚」の「ここ」は特定の集団ではなく、あえて言うなら「地球」や「この世」のようなもののイメージだ。「ここにいていい」ということを認めてくれる特定の他者としての対象は存在しない。
マズローの欲求段階説では低次の欲求が満たされると高次の欲求が現れると言われているが、そうではなくて、代替欲求を満たしても基底欲求は満たされないからさらなる代替欲求が現れると考えることはできないだろうか。
見えている欲求だけを考えていてはわたしたちは永遠に満たされない。
代替欲求を満たそうとすることは永遠の「欲求ループ」に人を陥れる。
だからマズローの欲求段階説はある種「正しいもの」としてマーケティングに活用することができる。
認識できる全ての欲求が代替欲求であり、一つの基底欲求に帰着させるのはさすがに乱暴だとは思うが、自分で「欲求」だと認識できるものだけが、いのちが求めるものだと考えるのも無理があるのではないだろうか。
「『わたしはここにいていいんだ』と思える感覚」が満たされると、所属や承認の欲求は薄らぐ、もしくはないに等しくなるのではと思えるのは極端な見方だろうか。
「『わたしはここにいていいんだ』と思える感覚」を土台として考えると、自己実現なるものもあまり必要ないように思えてくる。
「ここにいる」ということを以って自己はすでに実現している。
そう考えると自己は自ずと世界に溢れ出ていくように思う。
もしこれらの仮説が成り立つとすると、「『わたしはここにいていいんだ』と思える感覚」はどうやって満たされるのだろうか。
ここが難しいポイントだ。
マズローの欲求段階説で言うところの生存欲求(生理的欲求・安全欲求)が満たされることはその後押しになると思うが、「欲求が満たされる」という形を取った時点で、少し様相が変わるのではないか。
「欲求が満たされる」ということは、「欲求が認識される」ということでもある。
そうではなくて、欲求が欲求と認識されないくらい自然な形で満たされることが必要なのではないか。
たとえば、安心して暮らせる環境があること。あたたかく接してくれる人がいること。
そこに「安心安全がある」と気づく必要がないくらい当たり前に安心安全をが享受される環境と関係性があることで「『わたしはここにいていいんだ』と思える感覚」という感覚は育まれるのではないだろうか。
「満たそうとすることでは満たされない」
「満たしてあげようとすることでは満たされない」
そんなパラドックスがここにはある。
「『わたしはここにいていいんだ』と思える感覚」を育む関わりの一つが「ケア」や「コンパッション」と呼ばれるものなのではないかという気がしている。
治そうとするわけでも、癒そうとするわけでもない。
成長させようとするわけでもない。
今ここにある存在に対して愛をもって関わること。
コーチングに「『わたしはここにいていいんだ』と思える感覚」を育む要素があるとすると、それは「承認」をすることでも、「自己実現」を後押しすることでもなく、今ここにある存在に対して存在をもって、愛をもって関わることなのではないか。
逆に、代替欲求を満たすことに懸命になってしまうと、わたしたちはいつまで経っても満たされることはないのではないか。
そんなことを思う。
人に関わる仕事をしている人であれば(仕事でなくとも人に関わっている人であれば)、少なからず関わる相手の「欲求」に出会うことがあるだろう。
その欲求の奥からはどんな声が聞こえてくるだろうか。
わたしたちがいのちを生ききるためには何に気づけばよいのだろうか。
ここに書いたことはわたしという限られた人生と関わりを通して感じている仮説にすぎない。
そこには偏りやフィルターのようなものも大いにあるだろう。
だからこそ、いろいろな人の視点と体験を持ち寄って考えてみたい。
ぜひあなたに聞こえているもの、見えているものも教えてほしい。
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